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by enikaita
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『4.48 サイコシス』
演出=阿部初美/にしすがも創造舎

春風とも思えない寒風が吹きすさぶ西巣鴨に行き『4.48 サイコシス』を観た。すでにこの作品は世田谷パブリックシアターでドラマ・リーディング上演されており、演出もその時と同じ阿部初美さん。(翻訳者はちがう)

作者のサラ・ケインは99年に28歳で自殺したイギリスの劇作家。この『4.48 サイコシス』は作家の自殺直前に書き上げられた「遺書」的作品といわれている。この戯曲にはミュラーの『ハムレットマシーン』と同様に「役」も「ト書き」もない。精神科医と患者のやり取り、処方箋の薬の名前、リストカッターとその周辺の人たち、摂食障害、「数字」、などなどが、日記的・詩的に、生々しくつらつらと書き連ねられているだけだ。そのなかにはさまざまな人物が交錯しているようでもあり、そうでいながら実は全部、作者であるサラ・ケイン自身が分裂した姿でもあるのかもしれない。

だからこの作品がおのずと要求してしまうだろう上演様式として、何人かの俳優で上演された場合にすべての登場人物がサラ・ケインの分身であるというような、「微分」されたサラ・ケイン像(イメージ)を提示するような方法をとることが想定される。それがこの作品が「自伝的」と言われることのゆえんでもある。

今回の上演では、極力そういった立場から離れ、あくまで「戯曲」として真摯に向き合っていて、いさぎよかった。サラ・ケインという「どこかの国の人」の精神状態が、直接に観客一人一人とシンクロしていくことで、観客を「患者側」に立たせる、つまり観客に「舞台の上に入るのは私!」という感覚にさせるのではなく、むしろ「患者のかたわらにいる人」に近づけようとした。

演出の阿部はこの戯曲を5人の人物に振り分けた。それぞれは普遍的な「人間」ではなく、かなりその人の背景が見えてくるような人物像である。リストカッターの少女、サラリーマン、ホームレス、摂食障害の女、主婦、といったところか。それぞれの人物が、それぞれの立場からテクストを語ることで、個人的な自殺衝動は社会病理へと転化する。こういった具体的な人物像を投入する方法は、作品解説的ともいえるし、また狂気が放つ「美」的なものを表象できなくなってしまう可能性があるから、批判的な立場の人もいると思う。

しかし私は狂気が放つ「美」のようなものに近づきたいとはこれっぽっちも思わない。その「美」を楽しむことができるのは「お客さん」である。この作品は観客を「お客さん」にさせない。イメージの断片ではなく事実の断片。そういう意味で「社会派」であった。

この作品を観ているあいだ、具体的な2人の人物を思い出した。
一人は夜の街で「非行」少年少女たちを家に帰るよう促し、家に帰れば何百件ものメールに返事を出しながら、リストカット少女の自殺を仄めかす電話に応対している、「夜回り先生」。
もう一人は橋の下で中高生に火炎瓶を投げられ焼死したホームレス。私は、理不尽な仕打ちによって死んだこのホームレスが、死にぎわに感じたであろう恐怖感にシンクロしてしまっていた。

最後、5人はベッドに寝そべり、カーテンを閉める。その5人が「自殺」をしようとする。そこで芝居は終わり、と思いきや、舞台監督らしき男が出てきて「カーテンを開けて下さい」と客席に向かって言う。それで本当の終わりになるらしい。誰かがカーテンを開けることが、この「絶望」から救われる糸口となる、ということだろう。やはり観客はお客さんではいられないのである。しばらく白けた間があったが、やがて客席から一人の観客が舞台にあがり、カーテンを開けた。ちょっと演出としてやりすぎな気もしたが、私もその白けた間にカーテンを開けようか、少し迷った。しかし彼らの「絶望」を体に受け入れてしまうような気がして、たじろいでしまった。私は「夜回り先生」ではない。
by enikaita | 2006-03-20 09:32 | 舞台芸術
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