「日報」を名乗りながら、更新はときどき。
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秋の夜長に『ゲド戦記』
f0072231_23374263.jpg本当にいまさらですが、『ゲド戦記』を読んでます。
劇場映画では宮崎駿の偉大さを再認識。同じスタッフでつくっても、監督の力次第でここまでグダグダになるとは。作品の大胆な改変のせいで、原作者のル=グヴィンにはネット上で抗議文をだされるわ、ようわからん人に歌詞の剽窃まで指摘されちゃうわ。とはいえ、ル=グヴィンはこの映画のおかげでけっこう儲けたはず。

それにしても、かの有名な『ゲド戦記』が、かようにつまらぬはずはないわいとは思ったから、映画を見終わったすぐ後からずっと『ゲド戦記』を読みたかったんだけど、でもわざわざ本を買う気はなくて、図書館で(おそらく小学生と並んで)予約順番待ちして借りました。

『ゲド戦記』はこのシリーズ・タイトルの通り、ゲドっていう名前の魔法使いを軸にした、アースシーと呼ばれる世界をめぐるファンタジーです。ただ、少年時代のゲドを描いた第一巻『影との戦い』はまだしも、第二巻以降はゲドが主人公だとはいえず、このタイトルはちょっとビミョー。英語のタイトルは『Earthsea』で、こっちの方がしっくり来ますね。現在は第3巻の『さいはての島へ』を読書中。

『影との戦い』の表紙をめくると、見返しにはアースシーの地図が。地図ってのはその世界の中に入りこんでいくためのツールで、ファンタジー文学の基本ですね。ゲドが船で西へ東へと移動すれば、読者はそれを地図で確認しながら辿っていくわけです。

世界の果てがどうなっているのか、登場人物たちはよくわかってない。地球みたいな球体であれば、東にずーっと行けばやがて地図上の西の端に辿りつくんだけど、物語の終盤に世界の果てに辿りついちゃうとこからして、どうもアースシーの世界はいきどまりがある完結した平面であるらしい。この完結した平面であるということが、すごく作品性を決定づけているように感じた。

平面の外側にいるのは、地図を眺める読者そして、この世界を構築した作者だ。完結した世界の中では、現実にはありえないどんな魔法でも可能になる。描かれたことや書かれたことの全てが事実として生き生きと動き出す。『ゲド戦記』の魔法は、平面であるということにこそ支えられている。

こんなことを考えてるのは私だけかもしれないけど、本の中の世界が球体としてイメージされているならば、球体の外側になにかがあることを暗黙のうちに印象づけることにもなる。そこでは「ネリリし、キルルし、ハララしている」((C)谷川俊太郎)宇宙人がいるかもしれない。そうなると物語が無限に肥大して、魔法が隅々まで届かなくなってしまう。

『ゲド戦記』は、地図以外の点においても、紙のような「平面」にかかれていることを強く意識させる。主人公ゲドは通名をハイタカといい、ゲドという真の名を知る者はほとんどいない。アースシー世界においては、この真の名を知ることで、そのもの自体を知ることにもなるから、圧倒的優位に立つことができる。だからゲドは、信頼する仲間にしか名前を教えていない。たかが名前なんだけど、こういったことはゲド戦記に限らず、さまざまなファンタジー作品にも見られることで、名付けられた瞬間に世界が動き出し、同時にその名を持つ者の宿命までがすでに定まってしまう、ということがよくある。
名前への執拗なこだわりは、現実世界から考えると奇妙なことだけど、それが活字として紙に刻印されていると受け入れることができる。名前の持つ魔力を納得するには、文字で書かれるということが発語することよりも重要になるのかもしれない。映画のような媒体でこの特殊さを伝えることは難しく、これまでのさまざまなファンタジー映画も、いかに名作あれど、実は作品世界の解説程度の機能しか果たしてないのではなかろうか。
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by enikaita | 2006-10-26 23:38 | コラム
いまこそ「ツメコミ学習」だ!
Excite エキサイト : 社会ニュース

現在の学習指導要領は、世界史は必修でも日本史はそうじゃないんだねえ。とにかく気づかなかった学校の大チョンボなんだけど、あと数ヶ月しかないし受験生でもあるわけだから、大マケにまけて30回ぐらいでもよさそうなもんなのに、やっぱ意地でも授業70回やらせるのかねえ。まあ、ここを許しちゃうと入学式や卒業式などの国旗・国歌指導とか、他の項目にも影響しかねないから徹底的にやるんだろうねえ。

それにしても世界史って記憶の中では断片のみが飛び交ってるなあ。マルクス=アウレリウスとかオマル・ハイヤームとかイブン・バットゥータとかハルドゥーンとか、人名の断片だけはすごく覚えてるんだけど、その人がいつ頃の何者でを何をしたかとか、そういうことって全く記憶にないんだよねえ。何を思い浮かべても、いまやただただ用語の中を漂ってるだけなんだけど。試験前日に手製ノートを見ながら一気に記憶してったんだけど、そういう覚え方だったから、長期記憶にならなかったんだろうか。

まあ、渦中の高校生たちは世界史の用語を記憶する必要はないのか。とにかく70時間をどうやり過ごすか。だったら70時間の睡眠学習でいくのがいいんじゃないの。自宅のマクラにカセットテープ仕込んでさあ。あれってどこかで売ってるかねえ。

睡眠学習器
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by enikaita | 2006-10-24 20:25 | 時事ネタ
「夜露死苦現代詩」都築響一
f0072231_15355146.jpg「エクリチュール」ということばが、やっぱりどうも意味がわからない。
でもって、エクリチュールって「書かれたもの」のことらしいんだけど、だったら小説でも詩でも短歌でも評論でも、どれもこれもエクリチュール。「書かれたもの」ならば「書かれたもの」って言えばいいし、なぜわざわざフランス語?という疑問も出てくるし「デリダって誰だ」なんて、くだらないダジャレまで頭をよぎるんだけど、それをわざわざ使うのは「書かれたもの」ではおさえきれない概念が「エクリチュール」ということばにあるからなんだろう。

意味のわからないことばで墓穴を掘るかもしれないから、わたしがこのことばを使うことはない。
でもエクリチュールという概念に対して自信がない人でも「エクリチュールみたいなもの」くらいの言い回しはするわけで、そういうのを拾い集めるとエクリチュールっていうことばは、「書かれたもの」の中にある小項目(小説とか、詩とか、そういうもの)から概念的にはみ出してしまった「その他」を言うんじゃないかなということがなんとなくみえてきた。で、この定義が正解かどうかは知らないんだけど、勝手に正解だと仮定して、はみ出した「書かれたもの」が、「エクリチュール」というなじみのないフランス語でひとまとめに表されてるとしたら、なんか可能性をすごく狭くしてるような気がする。

そこで「夜露死苦現代詩」なんですけど、これってもしかして……「エクリチュール」みたいなものなんじゃないかい……いや、「エクリチュール」ってのは、これのことなんじゃないかいなんて、思わず世界の隅っこで、自信なさげにかつ、嬉々として「エクリチュール」を叫びたくもなったわけです。

でも都築響一氏はとてもエライ人で、「これはエクリチュールを集めたものである」なんてことはゼッタイに言わない。彼がカテゴライズできないこれらのはみ出した言葉たちを束ねるために創作した言葉が「夜露死苦現代詩」なんです。

都築響一といえば、「ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行」で、日本中に散らばるキッチュで猥雑な観光名所を写真と共に紹介し、私に多大な影響を与えてきた人物なんだけど(笑)、この「夜露死苦現代詩」でもかれの網羅的な収集癖が炸裂している。

この本で扱っているのは、痴呆老人の独り言、点取占い、餓死した親子の日記、死刑囚の俳句、玉置宏、暴走族の刺繍、エロサイト、分裂症詩人、親父の小言、見世物口上、相田みつを……などなど。そしてこの本は実は、半ば書評本だったりもする。
冒頭の痴呆老人の詩的な独り言……たとえば「あの夏の狸の尻尾がつかめなくって」とか「オムツのなかが犯罪でいっぱいだ」とか「あんな娘のアゲハ蝶が飛びながら ドンドン燃えてるじゃないか……」とか、まるで唐十郎のような意味不明の言葉たちの紹介は、『痴呆系』(データハウス)という書物を都築氏が手に取ったところから始まるし、刃のように突き刺さる死刑囚の詩集や餓死親子の日記も実は出版されている。そこを都築氏は独自取材で補強し、このようなカタログ的といえるまでの網羅的な作業が行われた。編集者でもある都築氏の力業である。

立ち読みでもパラパラと見てもらったほうがわかるので、とにかくみてみてください。個人的には痴呆老人の独り言も刺激的だけど、「玉置宏」がいちばんすきだったりします。
下記村上春樹氏の書評も参考までに。

村上春樹氏の書評
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by enikaita | 2006-10-22 15:36 | コラム
『役者魂!』
松たか子主演のテレビドラマ『役者魂!』というのが今日始まって、視聴率不振で残念ながら打ち切られた『下北サンデーズ』以来の演劇ネタなんでさっそく見てみた。

芸能プロダクションの社員である松たか子が、演劇部門にとばされ、藤田まこと扮する大物シェイクスピア俳優のマネージャーになる。たぶんこの頑固な俳優から、今後いろいろなことを学んでいくっていう内容だと思うんだけど、いや〜、ちょっとねえ。

上演演目が『リチャード三世』だし、このプロダクション主催の過去の演目がどれもシェイクスピアだし、しかも撮影場所が彩の国さいたま芸術劇場なもんだから、ホリプロとニナガワのことを思い出しちゃいました。『下北サンデーズ』は全然売れてない小劇団を扱ってたんだけど、このドラマはもっと大きなプロデュース演劇の世界を扱っているわけです。だからいちばん近似のモデルはやっぱりホリプロによるニナガワとかのプロデュース演劇だと思うんだけど、ちょっと実際と違うのは、演出家より藤田まこと扮する大物俳優「本能寺海造」の方が現場での立場が上だということ。新宿コマ劇場や、明治座や、新橋演舞場の座長公演だったらまだしもねえ。現代劇でそういう状況ってちょっと考えにくいんだけど、そんな感じの現場もあるんでしょうか。大手プロダクション内部ではニナガワもコマ劇場も同じ演劇だから、脚本段階でそこらへんのエピソードがごっちゃになってるんでしょうかねえ。
注文の多い大物俳優っているとは思うけど、平幹二朗とか江守徹とか美輪明宏みたいに自身がプロデュースして、演出して、出演しているならともかく、大物とはいえ一役者が、自分の演技が納得いかないからって初日中止にしようとしたりするのはちょっと俳優として職務怠慢だと思う(笑)。

舞台装置が気に入らないからってこっそり勝手にヨゴシをいれてたり衣裳の袖を直したりと、いわゆる「古くて頑固でこだわりのある俳優像」を描きたいんだろうけど、説得力がないし、そもそも描きだそうとしている役者像がいくらなんでも古すぎる。つけ鼻とかつけてるし。東山千栄子じゃないんだから。
この藤田まことのポジションを、唐十郎とか美輪明宏みたいなエキセントリックな人が演じたら、逆にそれなりのリアリティを保つことができるんだろうけど、それだとたぶん面白くなりすぎちゃって、松たか子が霞んじゃう。そうするとテレビドラマとして成立しなくなっちゃうのかもしれない。

それ以外のストーリー展開も、大物俳優に隠し子が現れたりとか、しょうもなくベタだし、時々松たか子が行う他人の人生への妄想も荒唐無稽。荒唐無稽ってつきぬけてればOKなんだけど、中途半端で面白くない。全体としては「いい話」で収めたいし、松たか子も「いい人」を演じてる感じ。ドラマとしてすごく古くさい印象だしなんか今後の展開が見えちゃってる。ちょっと謎めいているのは彼女が天涯孤独の身だという設定。生き馬の目を抜くプロデュース演劇業界(笑)で、この「いい人」は生き残れるんだろうか?
これでまた演劇界に対する誤解が広がるなあと思いつつ、これに比べれば『下北サンデーズ』って、上演それ自体の描写はともかく、裏側についてはそれなりのディティールがあって、ずっと演劇そのものに対して愛があったなあとつくづく思いました。
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by enikaita | 2006-10-17 23:20 | TV
『カポーティ』
小説家トルーマン・カポーティの代表作『冷血』の、執筆から完成に至るまでをたどる。新聞記事の一家惨殺事件に興味を持った人気作家のカポーティは、小説の題材にすべく取材をしに事件のあったカンザスへ。いつもは社交界で人々の中心でおもしろおかしくお喋りをしているイケスカナイ奴だが、その一方、決して幸福だったとはいえない彼自身の幼少時代がある。華やかな都会の光景とカンザスの荒涼とした風景の対比は、カポーティ自身が持つ二重性を象徴している。

やがて犯人のメキシコ系貧困層の二人組が逮捕される。カポーティは彼らに取材を試み、留置所で容疑者の一人に接触するうちシンパシーを抱くようになる。どこかで人生が狂えば自分がこの犯人のようになっていたかもしれないと考える。

カポーティが持つ影の部分と光の部分という二重性が、裕福で保守的な一家の死と、不幸な犯人という二重性とシンクロしてくる。この事件について綴ることは、結果として彼自身について綴ることになるのだ。カポーティはそのことに自覚的であるわけではないが、直感的にこの事件を小説の題材に選んだのはそういうことだろう。

カポーティは確実に死刑であろうこの容疑者に優秀な弁護士をつけ、裁判を長引かせつつ取材を続け、『冷血』の執筆を進める。犯人たちはこの小説の発表によって、自分たちの罪が少しでも軽くなることを信じている。再三にわたって執筆した原稿を読みたいとせがむが、全然書けていないと平気で嘘をつく。やがて犯人たちが煩わしくなり、裁判が早期に決着することをさえ望むようになる。決着しなければ『冷血』はいつまでたっても完成しない。作家として作品を完成したいという欲望と、犯人との奇妙な友情とがせめぎあう。作品完成のためには彼自身が「冷血」にならざるをえない。

やがて犯人から犯行当日の詳細を聞かされる。凄惨な惨殺現場はこの事件が持つ二重性の衝突の場面でもある。カポーティがこの場面に固執するのは、作品完成のためということ以上に、自己確認のためではないのだろうか。自己の内にあるせめぎあいが衝突した瞬間を疑似体験しているのだ。生々しい告白に悄然とするカポーティ。やがて死刑が確定し、カポーティは死刑執行の場所に立ち会う。殺人現場と犯人の処刑は、『冷血』執筆後におこるカポーティの破滅的な死を想起させる。

主役のカポーティは死刑を望んだりもするが、(映画ではそこまで描かれないけど)死刑をきっかけに彼の人生は破綻への道を進んでいくわけで、そういう意味で、映画に「死刑もの」というジャンルがあるとすれば、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』や『デッドマン・ウォーキング』などと並ぶ作品かもしれない。死刑をめぐる問題を短絡的に捉えず、カポーティという分裂した人物の視線から見つめることで、死刑の周囲にいる人間の弱さを描いている、ということもできる。

主役でプロデューサーのフィリップ・シーモア・ホフマンが、ただならぬ空気感を持つカポーティを、ソクーロフ『太陽』のイッセー尾形同様、ハイパーリアルに演じている。とはいえ私は本物のカポーティは知らないんですけど。
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by enikaita | 2006-10-07 16:47 | 映画
仏の競馬
ホトケの競馬ではなく、もちろんフランス競馬「凱旋門賞」です。
それにしても、普通に地上波で海外の競馬が放映されること自体画期的。日本の馬が出ようが出まいが、ぜひ毎年放映してもらいたいもんです。
フランスの競馬中継映像が新鮮だった。ロンシャン競馬場の2400メートルはスタートから直線が続くんだけど、その直線に平行して荷台にクレーンカメラを積んだトラックが併走する。疾走するサラブレッドとカメラの間を、いくつもの木陰が通過する。やがてコースは右に大きなカァヴを描き、直進するトラックはコース上のサラブレッドたちから遠ざかっていく。その姿がとても美しかった。日本の競馬中継は基本的にメインスタンドからの定点観測で、スタンドの反対側は決して見やすくないし、美しくない。でもこの中継を日本でやるにはトラックが走れるぶんだけのコースの大改修が必要になってしまう。

負けてトボトボと歩くディープインパクトをずっとカメラが追っていったんだけど、その背景にもそこかしこに木陰があったり石造りの建造物があったりと、競馬場の風景が美しい。広いと思っていた日本の競馬場がすごく狭く感じた。

とはいえロンシャン競馬場にも問題はある。それはコース内側が駐車場になっていること。太陽の光を反射してキラキラ光る自動車は馬の体より輝いていて都合が悪い。
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by enikaita | 2006-10-02 02:03 | 時事ネタ
ADT(オーストラリアン・ダンス・シアター)『HELD』
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(C)Lois Greenfield
この写真に惹かれて、はるばるさいたままでADT(オーストラリアン・ダンス・シアター)の『HELD』を観に行ってきました。

もう忘れかけてるけど、オーストラリアは今年のサッカー・ワールドカップで日本の対戦国だったからなんとなく印象に残っていて、サッカーから勝手に類推しちゃうとオーストラリアのダンスって、「一見鈍重だけどキレがあってパワフル」な感じなのかなと思っていたんだけど、実際観てみるとやっぱりその通りでした。彼らは全員、膝に黒いサポーターをしていて、男も女もまるでプロレスラーの風情。ダンスはブラジルのカポエイラとかからもかなり影響を受けていて、二人で絡むときは特に攻撃的な動き。そしてとにかく、よく跳ぶ。
でも、彼らの動きをていねいに書いてみたところで、それでは作品全体を捉えることはできない。この作品にはとても重要な要素がある。

客入れ時、舞台には二枚のスクリーンがあって、そこにはダンサーのクローズアップ写真が投影されている。やがてADTのダンサーたちと写真家のロイス・グリーンフィールドさんが登場、撮影会となる。シャッターを切るとボッという低音とともにストロボが点灯し、撮られたモノクローム写真は即座にスクリーンに投影される。その写真がどれもこれも精度が高いので、一瞬事前に用意したものなのではないかと疑ってしまったが、ダンサーのポーズをみると、やはりライブで撮影されたものだということがわかる。プロである。カメラは観客にとって三つめの目として機能する。写真家により瞬間が切り取られ、編集された形で即座に提示される。現実に目の前に立つダンサーの身体と、残像であるスクリーンに投影されたダンサーの姿とのギャップが新鮮。ここまで客入れ中。

本番が始まると写真家は舞台前ど真ん中に位置し、写真を撮りはじめる。客席からはちょっとじゃま。シャッターを切るごとにストロボの音と光が空間と時間を切断する。ストロボは観客を冷静な観察者にさせる。ダンサーの跳びはねる瞬間を中心に撮影しているもよう。重力に逆らった瞬間の思いもかけない姿勢となった身体が、次々とスクリーンに投影される。その画像があまりに鮮烈なので、ついついダンサー自体の存在を忘れてしまい画像に見入ってしまうという皮肉。これでいいのか。まあ、ダンサーの方も撮影されることを前提に「いつもより余計に跳んでる」感じ。

近年ビデオカメラを使用するダンスや演劇は枚挙にいとまがないが、どれもたいていパフォーマンス自体との調和をもつことが前提になっている。撮影者が能動的な形で実際の舞台上に存在してしまうということでは、映像作家の飯村隆彦が土方巽の舞踏を舞台上で撮影したものがあるのを思い出した。もちろん土方の時代にはその場で投影できるわけもなく、後日観るための記録映像になる。でまた、それは映像作家の独立した作品ともなる。今回のはダンスとダンス写真という別の独立したものがほぼ同時に提示される。そこではダンスと写真は必ずしも調和し合わない。
ビデオカメラでなく静止画が一瞬を捉えることで、ダンサーが完全に地面から足を離し空中浮揚したようにも錯覚してしまう。舞台上のメインはダンサー自身ではなく写真の方のような気がするので。クラシック・バレエ以来のヨーロッパダンスが追い求めてきた永遠のテーマである重力からの解放が舞台上においてこのような形で成就されようとは。全然関係ないけど、次々に空中浮揚写真が投影されるにつけ、某尊師死刑囚の空中浮揚写真を思い出してしまった。
ちなみに上の写真は本当に一瞬を切り取ったもので、実際のダンサーはこの姿勢で1秒とは止まっていない。
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by enikaita | 2006-10-01 00:25 | 舞台芸術


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