「日報」を名乗りながら、更新はときどき。
by enikaita
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シアターX
ここ半月ほど、お仕事で両国にあるシアターX(カイ)という劇場に行っている。この劇場に関して、かねてより一つの疑問があった。それは、なんで「シアターX」って名前なのか、ということである。

ちょっと時間があいたので、劇場主のウエダさんに尋ねてみた。
ウエダさんによると「〈X〉というのはクロスするというイメージもありますが、未知数の〈X〉というイメージでもあります」という、至極まっとうなお答え。てっきり両国という特異な場所性と関連があるのかと思っていただけに、ちょっと残念。

シアターXを内包する両国シティコアという施設はバブル時代に建てられた。
古くは、現在も両国シティコアの隣にある寺、回向院の境内で、この回向院という寺は、江戸中の無縁仏が集められていた。その境内で始まったのが勧進相撲であり、それが現在の大相撲へと発展している。

力士が四股を踏む動作は大地を踏みかためる動作でもあり、一種の呪術的な動作ともいえる。それは両国という場所が、江戸と下総の境界だったということだけでなく、あの世とこの世の境界だったということを示している。かつて蔵前に国技館があった時、あの世とこの世の境目という不安定な場所を踏みかためる役割を果たす大相撲が両国に戻ることは、相撲協会の悲願であった。

旧両国国技館は、まさに現在のシアターXの場所にあった。現在も劇場入口前の中庭には、旧国技館の土俵の位置を示すサークルがある。
この旧両国国技館は火事で全焼したのち、戦中には軍に接収された。ここでかの有名な「ふ号作戦」つまり、風船爆弾の製造が行われた。爆弾の試験には、天井の高い屋内施設が必要だったのだ。戦後は進駐軍によって管理され、メモリアルホールとその名を変えて興行施設となる。これを日本大学が買い取り「日大講堂」と名づけた。日大講堂は格闘技の聖地となる。一般に街頭テレビで日本中を湧かせた力道山、豊登、シャーク兄弟からフリッツ・フォン・エリック、ブルーノ・サンマルチノ、ジャイアント馬場らの活躍した場所はこの日大講堂だったし、ガッツ石松が世界チャンピオンになったのもここである(つまり「ガッツポーズ」はここで生まれた)。とにかくものすごく由緒がある場所なのである。

古くは、あの世とこの世の交差点、そして大相撲、プロレス、ボクシングと、格闘技の聖地でもあった両国回向院境内にある劇場が、偶然だったとはいえ、「シアターX」と名づけられていることにはなにか不思議な因果を感じてしまうのだ。
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by enikaita | 2006-03-28 12:06 | コラム
MODE『唐版・俳優修業』
作=唐十郎、演出=松本修/中野光座

もとは1977年の作品。唐作品のあらすじを書くほどバカバカしいこともないが、とりあえず。
夜間高校時代に演劇部に所属し、卒業後は劇団の研修生として街頭劇の舞台に立って、本物の警察官の制服を着ている通称サクランボ・ポリスは、高校の同級生で手品師の坂田と出会う。坂田は高校があった場所にできた警察学校に入っていた。そこで「誰も見たことのないヒトデを持ってくる」と豪語したのち行方不明になっていた。
サクランボ・ポリスは高校時代の恩師、菊池先生を探していたが、頭蓋骨にヒトデ型の穴を持っていた菊池先生は、成田闘争の真っ只中、坂田によってガス銃で撃たれ殺されていた。
ひとり、街頭劇をやめることのできないサクランボ・ポリスの周りで、現実と虚構が交錯していく。
……この後さらに続き、もっとややこしいが、とりあえずここまで。それでもおそらく、他の唐作品よりは整理しやすいと思う。上演時間は短い。2時間弱。

街頭劇の特殊性、つまり避けて通れない現実(例えば雑踏)とつきあわなければならないということが、「役」とそれを演じる「役者」のはざまへとつながっている。登場人物たちはそこでもがく。そこに初演当時の社会問題だった成田闘争が絡む。でも社会問題としては扱われていない。若者群像を描くための素材といった感じだ。

わたしは街頭劇を観たことがないし、成田闘争も知らない。なのでこの作品はリアリティを持ちづらい。
そういう人も多いだろうからと、演出の松本がとった方法が「映像」の使用だろう。『唐版・風の又三郎』でも「映像」を使用していたが、今回は主に「成田闘争」の場面に使用された。実はこれに問題があると考えている。映像と同時に流れる音楽は、知る人ぞ知るNHK「映像の世紀」のテーマソングではないか。このテレビ番組は、歴史的な映像をちりばめながら、20世紀を映像で振り返る10回くらいのシリーズだった。
結局、この曲が象徴しているのかもしれないが、映像を使用することで浮上してきたものは「現実」ではなく「歴史」だった。今回の舞台ではあらゆるものが歴史的なものとしてカギカッコで括られたような印象を受けた。唐作品上演における壁の一つだろう。

それでも、舞台はほとんどが若い俳優(わたしが観たのはプチモード版)で、彼らが意味をも無意味にするような饒舌の台詞と格闘し、絶望的なまでにもがいている姿には感じ入るものがあった。この舞台上にある「青春群像」ともいえるものは、きっと30年前と変わらない。メタシアター的な要素もあるこの作品は、上手い役者がメタ的な部分とドラマ的な部分を器用に演じわけたほうが、その混濁自体も明解になるから面白いのかもしれないが、唐の饒舌はそういう器用さを排除する。経験の浅い役者がやるからしっくりくる、ということもある。

帰りの電車の中で、頭の中に思い浮かぶのは、なぜか70年代ころの「青春」な歌ばかりだ。あと、椎名林檎も。
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by enikaita | 2006-03-27 04:00 | 舞台芸術
8階からドボン
近所の大型ショッピング・モールにアトラクション施設ができた。その名も「8階からドボン」。毛布でスマキにされ、ショッピングモールの8階から水に飛び込むというものだ。朝日新聞の景品で無料チケットを手に入れたので、友人4人とともに挑戦してみることにした。

店舗の中心に吹き抜けがあって、そこを直径2.5メートルくらいの透明チューブが縦に貫いている。これが噂の「8階からドボン」である。チューブの中は8階の高さまで水で満たされている。客は係員によって毛布でスマキにされたあと、8階にある入り口からこのチューブに投げ込まれ、ふわふわと下に落ちていく。見物人はそのチューブを音もなくゆったりと落ちていくスマキ毛布を眺めることができるようになっている。一見かなり危険をともないそうだが、経験者によると「緩やかな自由落下に身を委ねる感覚が病みつきになる」とのことで期待は膨らむ。従来あるような絶叫系アトラクションとは一線を画した新基軸である。アトラクションの周囲はオープンから間もないこともあって、かなりの人出だ。

1階にある受付カウンターに並ぶ。係員が「今日は風が強いですから、ちょっと微妙なんスよ」という。運行するかどうかを協議中らしい。やがて係員の携帯電話が鳴り、「え? ほんとにやるの? お客さん入れるけどいいの?」電話を切ると私たちに「問題ないみたいなんで、どうぞ」。……ダメならダメでそれで良かったのだが、本当に大丈夫なの?

受付で毛布が手渡された。この毛布が使い古されている。最新アトラクションで稼働率が高いからか、畳み方が雑だ。入り口は8階なので、階段を上る。8階に受付を作れば効率的なのだが、1階のほうが目を引くらしい。

妙に気になり、毛布をたたみ直すことにする。もたもたしているうちに友人たちは先に行ってしまった。後ろに列ができはじめた。「お先にどうぞ」と言うと追い抜いていく。ゾロゾロと続く列は毛布を持たないかわりに、みな酸素ボンベを背負っている。彼らは浦安高校のダイビング部で、練習のためにこのアトラクションを定期的に使用しているらしい。1人残された私は、あとを追いかけるが、彼らの姿は見えない。ようやく8階に到着したが、なぜか入り口が見つからない。あちこち迷う。この店は広すぎる。
途方に暮れ、けっきょくそのまま家に帰ることにした。

家に帰るといつもと様子が違う。ここは実は私の家ではないかもしれないが、それよりも疲れているから、どうでもかまわない。なんだか体に馴染んでいるし、もうすっかりコタツから出たくないのだ。
そこに一人の男がドアを開け入ってきた。男は無言のまま上がり込んでくる。「どなたですか」と尋ねるだけムダ、男は私に近づきナイフをちらつかせた。体を動かそうにもコタツから出られないし、「くぁwせdrftgyふじこlp;!」声を出しても声にならない。

体に突き刺されたナイフは、痛くなかった。
……ところで目が覚めた。
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by enikaita | 2006-03-23 12:14 | 出来事
消せない足跡……『FAGAALA』
JAANT-BI 振付・構成・演出=ジャンメイ・アコギー+山崎広太/パークタワーホール

はじめて山崎広太のダンスを観た時、視覚に不思議な作用があらわれた。彼のぶん回した手足が舞台上に残像として残り、それが舞台上を埋め尽くしていったのだ。そんな彼がセネガルにあるアフリカン・ダンスの国際センター、JANT-BIを率いるジャンメイ・アコギー氏と共同振付をした。手足の長いアフリカン・ダンサーと山崎の振付は相性がよさそうだ。

冒頭は「声」である。6人ほどのダンサーが小さなフォーメーションを組みながら舞台を練り歩き、アフリカーンな歌をうたう。カッコイイ。思わず体が震えてしまう。彼らは狩猟民族を思わせる慎重な足取りだ。獲物に気づかれまいとするような。アフリカン・ダンス的な、足をバタバタとものすごく速く動かす動きも、接地することを拒否する、あるいは足跡を消すためなのかもしれない。個々の身体能力が高くて圧倒される。

途中、明らかに「舞踏」を意識した動きが挿入される。痕跡そのものともいえる「舞踏」は農耕民族的なものであり、痕跡を地面に残すことを嫌うような「アフリカ的身体」と相容れないものであるが、アフリカ人の「舞踏」も面白い。

全身白塗りの男が舞台に上がる。彼が頭や手足を振り回すと、白粉が撒き散らされる。それは山崎のダンスにおける「残像」のようでもあった。この男が歩き出す。黒い舞台に白い足跡が一つ一つ刻印されていく。その足跡がまさに、山崎がJANT-BIと歩んできた足跡でもある。

この作品は「ルワンダのジェノサイド」を主題にしたということであるが、そういった暴力性、残虐性、狂気を、記号としてちりばめてはいても、全体としてそれが批評性を持った鋭さを得ているようには見えなかったのは残念だ。ダンスが政治的主題を扱うことの難しさを感じた。
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by enikaita | 2006-03-22 08:30 | 舞台芸術
『4.48 サイコシス』
演出=阿部初美/にしすがも創造舎

春風とも思えない寒風が吹きすさぶ西巣鴨に行き『4.48 サイコシス』を観た。すでにこの作品は世田谷パブリックシアターでドラマ・リーディング上演されており、演出もその時と同じ阿部初美さん。(翻訳者はちがう)

作者のサラ・ケインは99年に28歳で自殺したイギリスの劇作家。この『4.48 サイコシス』は作家の自殺直前に書き上げられた「遺書」的作品といわれている。この戯曲にはミュラーの『ハムレットマシーン』と同様に「役」も「ト書き」もない。精神科医と患者のやり取り、処方箋の薬の名前、リストカッターとその周辺の人たち、摂食障害、「数字」、などなどが、日記的・詩的に、生々しくつらつらと書き連ねられているだけだ。そのなかにはさまざまな人物が交錯しているようでもあり、そうでいながら実は全部、作者であるサラ・ケイン自身が分裂した姿でもあるのかもしれない。

だからこの作品がおのずと要求してしまうだろう上演様式として、何人かの俳優で上演された場合にすべての登場人物がサラ・ケインの分身であるというような、「微分」されたサラ・ケイン像(イメージ)を提示するような方法をとることが想定される。それがこの作品が「自伝的」と言われることのゆえんでもある。

今回の上演では、極力そういった立場から離れ、あくまで「戯曲」として真摯に向き合っていて、いさぎよかった。サラ・ケインという「どこかの国の人」の精神状態が、直接に観客一人一人とシンクロしていくことで、観客を「患者側」に立たせる、つまり観客に「舞台の上に入るのは私!」という感覚にさせるのではなく、むしろ「患者のかたわらにいる人」に近づけようとした。

演出の阿部はこの戯曲を5人の人物に振り分けた。それぞれは普遍的な「人間」ではなく、かなりその人の背景が見えてくるような人物像である。リストカッターの少女、サラリーマン、ホームレス、摂食障害の女、主婦、といったところか。それぞれの人物が、それぞれの立場からテクストを語ることで、個人的な自殺衝動は社会病理へと転化する。こういった具体的な人物像を投入する方法は、作品解説的ともいえるし、また狂気が放つ「美」的なものを表象できなくなってしまう可能性があるから、批判的な立場の人もいると思う。

しかし私は狂気が放つ「美」のようなものに近づきたいとはこれっぽっちも思わない。その「美」を楽しむことができるのは「お客さん」である。この作品は観客を「お客さん」にさせない。イメージの断片ではなく事実の断片。そういう意味で「社会派」であった。

この作品を観ているあいだ、具体的な2人の人物を思い出した。
一人は夜の街で「非行」少年少女たちを家に帰るよう促し、家に帰れば何百件ものメールに返事を出しながら、リストカット少女の自殺を仄めかす電話に応対している、「夜回り先生」。
もう一人は橋の下で中高生に火炎瓶を投げられ焼死したホームレス。私は、理不尽な仕打ちによって死んだこのホームレスが、死にぎわに感じたであろう恐怖感にシンクロしてしまっていた。

最後、5人はベッドに寝そべり、カーテンを閉める。その5人が「自殺」をしようとする。そこで芝居は終わり、と思いきや、舞台監督らしき男が出てきて「カーテンを開けて下さい」と客席に向かって言う。それで本当の終わりになるらしい。誰かがカーテンを開けることが、この「絶望」から救われる糸口となる、ということだろう。やはり観客はお客さんではいられないのである。しばらく白けた間があったが、やがて客席から一人の観客が舞台にあがり、カーテンを開けた。ちょっと演出としてやりすぎな気もしたが、私もその白けた間にカーテンを開けようか、少し迷った。しかし彼らの「絶望」を体に受け入れてしまうような気がして、たじろいでしまった。私は「夜回り先生」ではない。
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by enikaita | 2006-03-20 09:32 | 舞台芸術
直った。
ここ一年ほど、私のPowerBookG4がたいへん不調だったのですが、いきなり直った。
突然つつーっとブラインドが下りてきて、「再起動」の指示が頻繁に出るようになるわ(いわゆる昔の「爆弾マーク」みたいなもん)、ひどい時には液晶がじょわわーっと滲んでいくわ、PCのBIOS画像みたいな文字も出てくるし。バッテリー駆動ではアプリケーションがバカスカ落ちまくるわで、なだめつすかしつしながらなんとか命脈を保ってきた。いわゆる「カーネルパニック」というやつみたいです。

原因はメモリ。1Gをダメ元で新規購入した512Mに差し替えたら、これが大正解。一気にトラブルから解放された。
どうも私の1Ghzマシンでは、1Gメモリは差しちゃダメだったらしい。
店員いわく、「このマシン以降のものなら1Gメモリ問題ないんですけどねえ」だって。

マシンの発売当時、1Gメモリは想定されているだけで、実際の販売がなかったため、マシンスペック(最大2GB)は想定値だったんだけど、実際の1Gメモリが出来てみると対応しなかったということがそもそもの原因らしい。
せめて店員よ、買う前に教えてほしかった。

これから中古品を買う人は、気をつけてくださいまし。
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by enikaita | 2006-03-17 22:31 | 出来事
田中泯の「野外移動公演術」
『「生理歩測」地図─01─カラダカラダノダカラダ。』3月11日、出演=田中泯/戸山公園

しだいに暖かさが増してきた3月の昼下がり、東京都区内最高峰である新宿区戸山公園・箱根山近辺で舞踏家・田中泯の独舞が催された。
この公演に客席は存在しない。ダンサーは観客をひきつれながら移動していく。いきなりこれに出くわしたら異様な光景だろう。200人が一人の男の一部始終を目撃しようと場所を取り合っているのである。たまたま公園で遊んでいた小学生は「オヤジが寝転んでるだけじゃん」ともらした。たしかにそのとおり。バンドの演奏のあと、公園内の草むらにある水場からスタート。観客は田中泯を取り囲む。彼は春の風にふかれながら新宿の空気に溶けて、公園生活者がいつもするように、居眠りをしているかのようであった。実際にその水場は公園生活者も使っていた。ほんの数時間前にはこの場所で上半身裸になってヒゲを剃っている男を目撃した。

客席のない、観客が自由に移動していい芝居やダンスでよくあるのは、上演場所が同じ時間に点在しているというパターンだ。観客は散開しながら、島のように点在する地点を移動する。しかし今回はバンドと共演とはいえ、独舞なのでそういうことはできない。そこで「どう観客を移動させるのか」というところが気になってきた。

田中泯が移動を開始した。
彼は観客のスキマを見つけ、そこから移動していくのではなかった。比較的観客の多いところに自ら飛び込んだ。田中泯の移動する方向が劇場となり、客はその場所から一歩退く。退いてもまた追いかける。ついに一人の客を捕まえて一緒に寝転ぶ。それから這うようにして次第に観客のなかに消えていった。そうすると見えなくなった人が移動を始める。
観客に積極的に関わっていくことで、移動を促すのだ。沈黙のうちに移動を始める200人の観客。傍目から観るとハーメルンの笛吹き男である。

一人、絶妙の距離で田中泯をみつめる子供の姿が。いくら好奇心があるだろうとはいえ、他の観客よりはるかに至近である。公園遊具のすべり台と戯れる田中泯の後ろについて、同じ遊具にのぼる。あまりに距離の取り方がうますぎる。好き勝手やっているようでいて、ちゃんと踊りも観ていて、決定的な邪魔はしない。この子供、ぜったいにタダモノではない。最後にはついに田中泯につかまり、落ち葉の中をゴロゴロと転がされた。どうもやはりタダモノではなく「知り合い」らしかった。公園で遊んでいた他の子供は、田中泯が近づいたら逃げてしまった。これが普通の反応だろう。

それにしても、田中泯は踊っているだけではなく実は「踊らせている」。積極的に観客に関わっていくことで、沈黙のうちに200人の観客を「踊らせて」いるのではないか。そんな気がしてしまった。その200人の移動をたまたま目撃した戸山公園周辺の人が本当の観客なのかもしれない。
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by enikaita | 2006-03-13 15:46 | 舞台芸術
動く仏像〜SPAC『酒神ディオニュソス』
原作=エウリピデス、演出=鈴木忠志/船橋市民文化ホール

ギリシャ悲劇『バッコスの信女』を元にした、鈴木忠志16年ぶりの首都圏公演。さまざまな本で語られ、映像も見たことはあったが、実際の舞台は初体験。演出家本人出演のポスト・トーク付き。

そのビジュアルの強さに興味が向かう。舞台はシンプルだが、誰がどう見ても金がかかっていそうな衣裳。そしてなにより、俳優たちの所作が噂どおりすごい。スズキメソッドで鍛え上げた彼らは、動く時はブレないし、静止のポーズもぴたりと決める。まばたきすらしないのである。その姿はまるで新薬師寺の十二神将のようだ。一朝一夕にはできない動きである。余談だが、かなり前の方で観た私は、まばたきをしないために充血した俳優たちの「目」が気になった。

それから「声」である。腹からの声が劇場に響く。テクストがクラシックの楽譜のごとく機能していて、ここはクレッシェンドとか、アレグロとか、トランクィッロでよろしく、とか、やたら細かい。これもやはり鍛えてなければできないんだろうけど、そのせいか、明快に耳に入ってくるにもかかわらず、テクストの意味内容が全く聴き取れないのである。わたしがアホなのだろうか?

日本人以外の俳優が出演する時にはそれぞれの母国語での「多言語上演」が常態化しているということや、やたらに身体論に重きを置くアフタートークの鈴木忠志氏の発言から考えても、作品における「物語」はさほど重要ではないのだろう。
当日プログラムにはこの作品における「宗教と政治」の対立に触れ、その「テーマ」らしきものとの関連から、湾岸戦争、オウム真理教事件、宗教テロなどが想起されるような作品である〈らしい〉のだが、そんなことは微塵も感じなかった。原作にいた「ディオニュソス」の役が6人の僧侶によって語られることから、「人々の精神を統制しようとする集団の意志がディオニュソスを生んだ」という解釈を得るような構造になっているらしいが、そんな解釈まで辿り着かない。スズキメソッドでは「語り芸」がはしょられていて、俳優は「仏像」のようにそれぞれで完結していて対話がない。だから観客には内容がわからない。いくら鍛えられた俳優だからといって、ビジュアルの強さだけでは演劇としては飽きてしまうのだ。

結局見せたいのはスズキメソッドで鍛えられた俳優の身体のようである。確かに俳優教育者としての鈴木忠志氏の実績は疑いようがない。でも、それ以外にはこの舞台には何もないのではないか。そういう意味ではこの舞台はスズキメソッドのショー・ケースであり、ほかのどんな作品でも代用可能なのだろう。「動く仏像」の感動以上のものは得られなかった。
そういえばポスト・トークの鈴木忠志氏の語りも「禅問答」のようであった。
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by enikaita | 2006-03-10 12:33 | 舞台芸術
泣かないのか、2006年のために〜ポツドール『夢の城』
作・演出=三浦大輔/シアター・トップス

この日は猛烈に忙しい日で、朝起きてすぐに出かけ、ひとしきり用事が済んだらもうすっかり夕方になっていた。
さて、ポツドールの『夢の城』を観る前に腹ごしらえ。ひとりで新宿の「大戸屋」に行く。いつも盛況の大戸屋では相席になった。隣はカップルだったが、このカップルがケンカをしているわけでもなさそうなのに、ひたすら黙々とメシを食っている。本当に全くひとことも会話がない。私は普段からおしゃべりなので、そういうのが落ち着かない。と思ったら、麺つゆの中にうどんをドボンと落としてしまい、カップルの内の女性の方に汁がかかりそうになってしまった。「あっ、大丈夫ですか」「ええ、大丈夫です」……この私との会話が、このカップルが大戸屋で発した唯一の言葉。
あれで楽しいのかねえ、とふりかえりつつ、劇場へ。そしたら、まさにそんな芝居だったからビックリしたってわけです。

ポツドールは岸田賞も受賞した前回の『愛の渦』で初めて観た。人づてにきいた「過激な性描写」や「暴力表現」よりも、「密室内での空気の読み合いと主導権争い」が執拗に描かれていることのほうに興味が向かった。理不尽なまでのトゲトゲしさに、怒りをも覚えたものだ。

今回の『夢の城』は、アパートで集団生活をしている男女8人の、午前3時から翌日の午前3時までの24時間を描く。観客はその室内を観察するのだ。「人間」と書かれた動物園の檻を覗き込むような感覚である。実際にやられることは動物そのもの。交尾、睡眠、排泄、エサの時間。この空間とそれぞれの観客の生活をつなぐ装置は、つきっぱなしのテレビと、蛍光灯の醒めた照明である。

前作と違い、台詞が全くない。「動物」を描くことに徹底したかったからだろう。混沌とした中にも不思議な棲みわけが既に確立していて、理不尽な主導権争いは必要ではないからかもしれない。ただ依然として「空気の読み合い」はずっと持続している。ただ、彼らは「読み合っている」だけで、結局相手が何を考えているかは理解できない。

後半、この動物園の檻に3度の叙情的な場面が訪れる。それらは全て女性によってもたらされた。
ひとつは「料理をする女」だ。自分のためだけでなく、同居人たちのために葱をきざむ。最初の「人間である証拠」だ。出来上がった鍋は、無言のうちにむさぼり喰われた。
ふたつ目は「ピアノを弾く女」。動物のように餌に喰らいつきながら、電子ピアノを弾く。過去にピアノを弾いたことがあるのだろう。かつてあった人間としての記憶を思い出しながら、鍵盤の一音一音を確認するかのようだ。
みっつ目は「泣く女」だ。最終場面の「午前3時」、暗闇のなかで泣き声が響く。その女の泣き声を聞いた男は蛍光灯をつけ、テレビで見たスピードスケートのまねごとをする。女が不意に直面した「現状認識」から目をそらすための「思いやり」である。

このみっつの「人間である瞬間」を描くことで、この芝居は単なる「状況の提示」だけではなく、「演劇作品」として成立し、前作よりさらに演劇的になっていると考えられる。

「空気の読み合い」に終始しながら永遠に続く動物の檻。崩壊しない集団もまた不幸である。
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by enikaita | 2006-03-09 14:51 | 舞台芸術
ふたたび『モローラ』から、いきなり「新劇」へ。
ここ最近でサイコーに面白かったと思っている『モローラ』であるが、観劇から数日経って、いろいろな人に話を聞くと、当然といえば当然だが、受け取り方が全然ちがうわけだ。

「たしかに面白かったけれども、想定の範囲内」ということで、どうやら全てが演出家の手の内にあると見えてしまうことが気にいらないらしい。
この作品は、「民衆力」のようなものによって、上演行為が上演台本を否定しまうという構造になっていて、観客はそこを右往左往するわけだ。ただ、その観客も含めた舞台全体の情動のようなものが、すでに演出家によって「折り込み済み」の状況である、ということが引っかかるらしい。そこでは演劇が持つ「その場」「その時」が生みだす不確定要素の可能性が失われているのではないか、ということだ。だからたとえば、アマチュア性を基軸にしたような舞台作品が時折見せるような「はじける」面白さを見いだすことは難しいし、このあとの展開が見えないということでもある。

ただ、アマチュア性がそういった面白さをはじけさせるということは、やはり極めて稀なことでもある。しかしながらこのアマチュア性こそが、演劇自体の発展をはかってきたものだということもいえるからこそ、こういった意見が『モローラ』に対して寄せられるのだとも思う。

さて、私はひっそりと下北沢で行われた「新劇とは何か」という主旨のシンポジウムを見に行ったのだが、そのときのパネリストの締めの発言は少々意外なものであった。
司会者の「新劇って結局何なんですか?」という素朴な問いに対して、「新劇とは〈アマチュアリズム〉である』と言ったのだ。

日本の演劇史をとても大ざっぱに概括すると、古くは「歌舞伎」があって、もっと現代の題材を扱いたいということで「新派劇」が生まれ、もっと自然な演技がしたいということで「新劇」が生まれ、もっと好き勝手にやりたいということで「アングラ」が生まれ、もっとオシャレにしたいということで「80年代小劇場」が生まれ、もっと日常に即してということでいわゆる「静かな演劇」が生まれ、もっとバカでいいじゃん、ということで「演劇ぶっく」的な演劇が生まれたという、まさに弁証法的発展を遂げている。ついでに言うと21世紀の日本演劇は「もっと事実に近づきたい」というところから様々な方法が模索されているのではないか。(もちろんこれはめちゃくちゃ大ざっぱで、旧形式を全否定したわけではなく、それぞれ旧形式をどこか引き摺っているということだけは間違いない)

さて、この「もっと○○したい」というのが〈アマチュアリズム〉なのだろう。その人が以前の形式を否定するとき、過去の形式における「藝」の存在に目を向ける。つけいる隙のない「藝」の存在があったからこそ、後続の演劇人たちはそれをまず否定することで自身の立場を築いてきた。「少々意外」だと思ったのも、私が新劇を「藝」だと考えていたからだ。杉村春子にしろ宇野重吉にしろ「書かれた台詞」をあれだけスムーズに言えてしまうというのは藝以外のなにものでもない。しかしその創成期において新派劇における「藝」の否定からスタートしているわけだから、新劇も〈アマチュアリズム〉を発端にしているといえる。そこから新劇は演技論を体系化して、40年近く前にすでに「藝」と見なされていたわけだ。「うまい・へた」ということが判断される時点でそれは既に「藝」であろう。21世紀の今、ここで「新劇はアマチュアリズム」と言われてしまうことの違和感は全く拭えない。「藝」だからこそ面白いとも思うのだが。
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by enikaita | 2006-03-01 16:47 | 舞台芸術


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