「日報」を名乗りながら、更新はときどき。
by enikaita
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『七人みさき』多言語版
作=秋元松代、演出=ニーラム・マンシン・チャウドゥリー/国際交流基金フォーラム

まず、「多言語版」ってなんじゃい、ということなんですが、出演者がアジアの各国人で、その人たちがそれぞれの自国語で台詞を言いあう。そこでは例えば、台湾人とパンジャブ人が、実はお互いの言葉をまったく理解できないんだけど、まったく齟齬なく会話するという「お約束」を前提にした芝居である。観客もその「お約束」をよくわきまえた上で作品を観るわけだ。

近代日本の戯曲『七人みさき』。これは女性劇作家・秋元松代の74年の作品。平家落人伝説のある閉鎖的な村が、出稼ぎなどで男手も少なくなるなか、全村移転を計画する。それを仕切る村の有力者である男・健二と、その妹で巫女でもある藤との禁じられた恋。資本に取り込まれる農村、文明と原始、男性と女性、といった様々なモチーフを盛り込んでいるややこしい物語である。

この巫女が祀っている「あんとくさま」というのは、源平合戦の際に三種の神器と共に入水した安徳天皇のこと。諸星大二郎が大好きな私はここで、「閉鎖的な村が祀るタタリ神でもある旧時代の安徳天皇を召還して、大都市・東京に住む明治期以降の天皇との対決」というイメージを想起してしまった。でもこれは日本人以外には全く関係ないことなので却下。

この作品の演出を担当したインドの演出家、ニーラム・マンシン・チャウドゥリーさんはさらにクールであった。アフター・トークの彼女の発言によると、「この戯曲から様々な意味を読み取ることはできるが、それらはインドにおいても既にステレオタイプなものであり、あくまでストーリーとして活用したに過ぎない」ということだそうで、作品の内容については考えなかったということだ。

こういう態度は演出家としてどうなのよ、というかもしれないが今回のニーラムさんは実は全く正しい。インド、台湾、インドネシア、タイ、香港、シンガポール、韓国、マレーシア、オーストラリア、日本の10ヵ国の俳優が出演したこの企画は、普通の演劇と違い、作業が多くて時間がかかる。お互いの使用言語が違うからだけではない。まずそれぞれの演劇的背景や演技実践のズレを認識していかなければ、作品として立ち上がっていかないのだ。このような極めて実験的で野心的な企画であるにもかかわらず、ニーラムさんの日本滞在期間(つまり稽古期間)はたったの12日間(!)である。過去にリーディングで上演したこともあるとはいえ、わずか12日間の稽古で作品をつくることは実質不可能。しかも多言語公演で日本の台詞劇。このタイトなスケジュールの中でニーラムさんは自分のやるべきことを選択した。

『キッチン・カタ』のようなすぐれた舞台成果もあるニーラムさんは、物語の軸となる健二と巫女に自分のカンパニーの俳優を起用、そこだけはインドで稽古を積み重ねてきたそうだ。そのことによって作品の骨格を見せることに成功した。わずか12日間での驚異的な成果である。各国の俳優それぞれの特徴も表われていた。やはりもっと時間があれば、作品として充実したものになったのではないかと惜しまれる。それにしても、やはりこの戯曲選択には問題があるのではないか。チラシには「各地の言語が持つ多様な音の美しさをお楽しみ下さい」とあったが、あまりに多い台詞の量で、客席で字幕を追うのが精いっぱい。もっと台詞の少ない単純な作品がいくらでもあるだろう。もちろん戯曲を選んだのは彼女ではない。

たしかに「多言語上演」や「日本戯曲の海外演出家による上演」というのには魅力もあるし、具体的な意義がある。しかしそれを実現するためには相応の時間がかかる。日本人だけで普通に芝居をつくったとしてもわずか12日間で作品をつくることは不可能。これでは参加する海外のアーティストの「出稼ぎ」ではないか。アーティストを出稼ぎ労働者にするか、芸術家にするかはそのアーティストのモチベーション次第である。ニーラムさんのぼやきを聞く。インドでこの作品の稽古発表をしたときより、今日の東京公演の方が客が少ないというのだ。それから本番初日のいちばん忙しい朝に、突然ホテルを移動させられたらしい。企画者は具体的な成果重視のあまり、創作現場への配慮が決定的に欠如している。今後もこういった企画を継続していく必要はあるが、もっとじっくり時間をかけたものでなければならないだろう。
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by enikaita | 2006-02-25 19:46 | 舞台芸術
『ダーウィンへの最後のタクシー』
楽天団/作=レグ・クリップ、演出=和田喜夫/スタジオあくとれ

この作品は、96年に実際にオーストラリアで起こった、「安楽死」をめぐる事件を舞台化したもの。タクシー運転手のマックス・ベルは、余命6ヵ月を宣告された。彼はオーストラリア北部準州の新法「末期患者の権利法」の新聞記事を読み、安住の地だったブロークン・ヒルから、自分のタクシーでオーストラリアを東から西へ横断しダーウィンまで、「安楽死」への旅に出る。
新法施行直前のダーウィンに着いたマックスは、死の時を静かに待つ。しかしなかなか安らかな死は訪れない。実は医者たちが怖じ気づいているのだ。なかばあきれた彼は、仕方なく再びタクシーでブロークン・ヒルへの帰途につく。

ここまでは完全に本当の話。作家的想像力は、死期が迫るマックスの旅の途中での出会いによって発揮される。
立ち寄った「こざっぱりした町コンテスト」にノミネートしている田舎町では、審査員を迎えてあの手この手を尽くして接待する場面に遭遇。何もないが故に「こざっぱりした町」なのだが、シドニーから来た審査員は一言、「退屈だ」。
途中、アボリジニーの男を同乗者として迎える。彼が語る200年のアボリジニーの歴史。

オーストラリア大陸の広大な砂漠をひた走るタクシーが出会ったのは「オーストラリアの現実」。白人が築いた均質な街がその有効性を失った途端に放り出され、均質な砂漠へと変容する。残るものは何もない。作品中にも掘り尽くされて閉山された鉱山のエピソードが登場する。
オーストラリアに限ったことではない。「何もない町」は私の出身地でも同様である。かつて地元商店街を壊滅させたスーパーマーケットやチェーン店は、人口減少にともない軒並み撤退、日本の田舎にも均質な砂漠は確実に迫っている。

この舞台では主役のマックスは、その「傍観者」的特性のためにブロークン・ヒルから生まれてから一度も出たことのなかった男として設定されているが、本物のマックスはシドニーでボクサー・ゴルファー・ボディーガードといった職業をしていたらしい。なかなかのマッチョである。また、実在の事件をもとにしているだけに、この作品は少なからぬ禍根を残している。実際の安楽死担当医は作家に対して、「一切の取材はなかった。〈芸術〉の名において、マックスの記憶を汚し、私を中傷した」と発言している。確かに作中の医者はかなり悪意に満ちた人物である。途中、アボリジニーの女性が誰も耳を傾けていないであろう騒然とした中で、安楽死に対する反対を訴える場面もあり、作者の安楽死に対する考え方が見え隠れする。

作家自身の考えもあるだろうが、医者はもう少し好意的に、悪意でなく善意として安楽死を捉える人物として描かれた方がいいように思う。しかしこの作品は「安楽死」そのものよりも、「安楽死」を望む男が自分の国・オーストラリアを見つめていくところに主眼が置かれている。それゆえ実は「安楽死」も、その素材に過ぎないのかもしれない。

旅行中のエピソードから主人公が事実に直面していくというのは、いわゆるロード・ムービーの手法である。この作品にオーストラリア白人音楽(カントリー)が一貫して挿入されることもそういった理由だろう。映画的手法をわざと使うことで、小さな劇場に広大な風景を現出させた。とくに今回は「スタジオあくとれ」というスーパー小劇場である。映画化されたらばぜひ観たいが、上記の問題もありなかなか難しいと思われる。
(写真は本物のマックス・ベル氏)
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by enikaita | 2006-02-20 21:50 | 舞台芸術
『モローラ・灰』から『ホテル・ルワンダ』へ
横浜で南アフリカの演劇『モローラ・灰』を観た。

倍音唱法の女性ポリフォニーがコロスだということで、演劇的興味以上にマホテラ・クイーンズみたいな南アフリカ的ポリフォニーが聴けることを楽しみにでかけた。ちなみにマホテラ・クイーンズというのは90年頃の世界的なワールド・ミュージック・ブームのときに人気だった南アフリカのマハラティーニ&マホテラ・クイーンズのメンバーで、女性による驚異的に息のあった伸びやかなポリフォニーが話題となり、日本でもパルコのCMに登場した。アフリカのミュージシャンはリズムの魅力だけでなく、マリのサリフ・ケイタのような驚異的な声も特徴的。

倍音唱法といえば、まず思い出されるのがモンゴルのホーミーだが、アフリカのそれはどのようなものだろうか。この作品では場面転換などに用いられていた。倍音唱法とそうでない部分があったが、倍音唱法自体は私が想定していた「伸びやかさ」というような質のものではなかった。ものすごく低音なのだ。しかも演奏される楽器も低音、音が地を這い、劇場を包む。しかも、この超ファンキーなコロスのオバちゃんたちは、どんどん芝居に介入してくるのだ。まさに八面六臂の大活躍、ある時は南アフリカ黒人のその他大勢、ある時は世界の世論、そしてもちろん効果音も。とにかく彼女らの存在は、この作品からまったく欠かすことはできない。

内容はギリシャ悲劇のアガメムノン一族にまつわる連作を再構成したもの。父を殺した母クリュタイムネストラを、娘エレクトラとその弟オレステスが復讐する。しかし母の夫殺しも復讐に由来するため、連作を一つにまとめることで、「復讐の連鎖」というモチーフがより鮮明になった。

そしてこの舞台で重要なのは、娘エレクトラと弟オレステスを黒人が、母のクリュタイムネストラを白人が演じているということ。つまりこの「復讐の連鎖」のモチーフはそのままアパルトヘイトとその後の現代の南アフリカにおける問題と直結するという仕掛けが施されているのだ。

舞台はまずコロスの登場から。客席などからひとりずつ、ポリフォニーが追加され、空間が「声」に包まれる。全ての登場人物が登場し、声が止むと蛍光灯が点灯、幻想的でさえあった空気が一気に現実にひき戻される。始まるのは「真実和解委員会」の裁判。これは恩赦を受けるために自ら犯した罪をクリュタイムネストラが告白する場面。ただ、現実に引き戻されたとはいえ、その発声は朗誦に近いためにいわゆるリアリズムではない圧力がある。

この裁判での証言を軸に、舞台上は過去に遡って母の夫殺し、娘への虐待、エレクトラによって他所で育てられたオレステスの帰還、そして復讐の場面へと進む。ただ、時間軸的にはいちばん新しいのはこの冒頭の裁判の場面であるから、ここに母のクリュタイムネストラが登場しているということは、その時点ですでに原作とは違い「復讐は達成されなかった」ということが明示される。

つまりこの作品は、どう復讐の連鎖を断ち切ったのか、ということへの考察である。

白人母が黒人娘に対して、ビニール袋を頭からかぶせて窒息させるとか、途中に挿入された虐待の場面はかなりリアリティがある。それもそのはず、実際に南アフリカの治安警察がレジスタンスに対して行った行為で、これは現実の「真実和解委員会」でも法廷で再現された。

なかなかえげつない。舞台上は土と血でしだいに乱れ、秩序を失っていく。「絶対に復讐をしなければならない」という脅迫の声が聞こえてくるかのようだ。しかし、ところどころ見事に象徴的・演劇的に処理されてもいる。オレステスが母の愛人・アイギストスを殺す場面、舞台上にはアイギストスは一切登場しない。オレステスは恍惚感をも匂わせながらアイギストスの長靴と格闘し、その長靴の中から血まみれの心臓を取り出したのだ。

アイギストスを殺したオレステスは復讐の本丸、クリュタイムネストラへ立ち向かう。しかしそこにコロスの声が聞こえる。あるいは育ての母の声だろうか。自分の声かもしれない。「復讐は復讐を呼ぶ」
かくしてオレステスは復讐を断念する。復讐が達成されず泣き崩れるエレクトラを抱きしめるオレステス。
「灰」が舞台に降り注ぎ、カタルシスをよそおうが、舞台上の俳優の表情は一様に暗い。けっして〈和解〉したわけではないし〈和解〉することは不可能だ。〈復讐〉という選択肢を断念しただけ。最後には復讐する側とされる側、両者の溝はまったく埋まらぬまま、三人が舞台上で立ちつくす場面で終わる。
舞台上で〈和解〉を示すような台詞が喋られても、俳優の意識とは次第に乖離していく。そのことがそのままアパルトヘイト後の南アフリカの理念と市民の意識との乖離と接続している。理性のみがそこをつなぎ止めている。

声、演技、演出などなど、すべてにおいて圧倒された希有な舞台だった。


映画『ホテル・ルワンダ』の余韻が鮮明なまま、この舞台を観たので、どうしても『ホテル・ルワンダ』と比較・関連づけて考えてしまう。『ホテル・ルワンダ』は観たすぐあとはカタルシス的感動に包まれたのだが、現在はこの映画についてずっと冷静に捉えることができるようになってきた。
私は『ホテル・ルワンダ』における「最終的にエンターテインメント」な姿勢にどうも引っかかる印象を持ちはじめていたのである。

この舞台と『ホテル・ルワンダ』の違いは〈復讐する側〉か〈復讐される側〉かということだ。

『モローラ・灰』は、復讐心を醸成していくエレクトラの心理に焦点を当てていて、猛烈な虐待を目の当たりにした観客は「復讐の断念」という選択肢に対して次第に消極的にならざるを得ない。このため最後の〈復讐の断念〉はより鮮明に異化される。つまり観客の復讐心をわざとあおっておいて、最後に当初観客が想定していたであろう〈和解〉をいきなりもちこみ、観客の意識を混乱させ、一気に理性に引き戻す。そこで結果として復讐の論理を追体験するような仕掛けになっている。

一方で『ホテル・ルワンダ』は根拠のない〈復讐〉に対してなす術なく逃げ惑うツチ族住民を描いている。ここでは『モローラ』にあるような復讐者の論理はない。復讐者は単なる暴徒であり、不特定多数である。フツ族のプロパガンダ放送がツチ族を「コックローチ」と表現することの裏返しが、実は映画上でフツ族民兵に対しても行われているのだ。観客の中にはフツ族民兵こそ「コックローチ」であると認識した人さえいるはずだ。そこに残るのは結局〈復讐の連鎖〉の予感に他ならない。

『ホテル・ルワンダ』は、生存者が見たものに忠実に「虐殺しようとしている場面」をあえて挿入しないことで、よりリアルさを得たが、ホテルに避難してきた民間人にのみ焦点をあてたがために、重層的な状況を把握しづらくなっている。フツ族民兵を虐殺に駆り立てたものは何だったのか、そういう場面も必要だったのではないか。
正直、この映画に対してあまりに「感動の涙が止まりません」みたいな、どうでもいい評価が多いので、ちょっとひねくれてみました。
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by enikaita | 2006-02-19 01:06 | 舞台芸術
「ナタ、あります」〜『ホテル・ルワンダ』
話題の『ホテル・ルワンダ』、観てきました。

まずこの作品で重要なことは、いわゆる「虐殺」そのものの映像自体はほとんどないということ。監督の意図として、いわゆるホラー映画のようにはしたくなかったそうで、結果としてそれがジェノサイドの恐怖を増幅させているのではなかろうか。歴史的事実を高い視点から見下ろすのではなく、あくまで一般市民の視点から描かれた「ドキュメンタリー・ドラマ」である。

94年にルワンダで起こった100日で100万人の大虐殺が題材。ベルギーの植民地だったルワンダは統治政策のため、少数派のツチ族を優遇。民族が明記されたIDカードまで発行して管理し、差別意識を市民に植え付けた。まるで白土三平「カムイ伝」である。1962年に独立してからは逆にフツ族支配が続き、軍事クーデター後はツチ族には苦難の時期が続く。92年、ツチ族中心のルワンダ解放戦線と長期軍事政権のフツ族・ハビャリマナ大統領との間で和平交渉がスタートし、ようやく新しい時代の到来かと思ったが、大統領暗殺で事態は一気に暗転。政権の穏健派フツ族まで殺され、政府軍や民兵組織がツチ族市民を虐殺し始めた。

この映画の恐怖をもっとも増幅させた小道具は、カラシニコフでもなければ、機関銃でもない。「ナタ」である。冒頭、主人公のホテル支配人は、ビール買い付けの際に大量の「ナタ」が入ったコンテナを目撃する。そのナタは中国から1本10セントで購入したそうで、50セントで売りさばくのだという。

やがて街はナタを持ったフツ族市民(民兵)と、彼らに殺された人たちの死体で溢れ、行き場を失ったツチ族市民は続々とホテルに避難してくる。そこに国連平和維持軍撤退の報せ。
すっかりのめりこみ、恐怖におののく私であった。

この映画に「虐殺」の具体的な場面がほとんどないのは「ホラー映画にしたくない」からだけではないだろう。やはりあくまで「市民の視点で描かれている」からと考えた方が妥当だ。もしツチ族市民がナタで殺されている場面に遭遇した場合、その人が生き残る可能性は極めて少ない。つまり虐殺行為の目撃者になることは「死」を意味するのだ。目撃するものは、無造作に道路に転がる大量の死体。このリアルさを保持するために、「異化」にあたるような虐殺そのもののハードな場面を用いなかったのではないか。ただ、主人公の息子は、その目撃者として返り血を浴び、トラウマのため喋れなくなる。
ナタを持ったフツ族の市民の内心に対してはもちろんのこと、自分の子供の内心にも、絶対理解できない闇がある。その闇については推し量るしかない。だからこの映画では、主人公が自分の目で見ていないものはほとんど映像化されていないのだ。

主人公のホテル支配人は自分の妻に、「もし民兵がホテルに侵入してきて追い詰められたら屋上から飛び降りて自ら命を絶て」と言う。つまり「ナタで殺されるよりはマシ」ということ。
私自身も「どう殺されるのがいちばんマシなのか」とあれこれ想定してしまう。

原価10セントのナタが100万人の命を奪ったという事実に愕然。しかし実際には、
<ルワンダのジェノサイドについては、一般大衆が多数参加し、農民がナタを持って殺戮を遂行したとの理解が流通している。しかし、公刊された文書資料や聞き取りから状況を再検討すると、民間人が殺戮に関与した例もあるにせよ、多くの場合、軍や警察が近代的武器を持って殺戮を実践したことがわかる。>(引用元=「ルワンダのジェノサイドが提起する諸問題」武内進一
ということだそうで、ナタによる一人一殺ばかりでジェノサイドが進行していったわけではないようだ。こんなことを書くと「やっぱり南京大虐殺はなかった」とか自信満々に言い出す人がいそう。

今週はなぜかアフリカ・ウィークで、18日には南アフリカの演出家による『モローラ・灰』という舞台を観に行く予定。ギリシャ悲劇をアパルトヘイトや反テロ戦争を暗示しながら再構成。倍音唱法の女性ポリフォニーがコロスだということで、マホテラ・クイーンズみたいなものが観れるかもと、いまから楽しみ。差別・恐怖・貧困といった面だけでない「豊かなアフリカ」をナマで感じるいい機会である。
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by enikaita | 2006-02-17 04:06 | 映画
表参道ヒルズって。
全然何にも知らずに、たまたま用事があったので表参道へ。
表参道の坂が人でビッシリ、なんじゃこの人だかりは?
同潤会青山アパートを潰してオープンした、
表参道ヒルズに群がる人々でした。
なんでわざわざこんな混雑したところに来たがるかなあ。
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by enikaita | 2006-02-11 19:12 | 出来事
スタンド・アップ/北の国から
あの『モンスター』のシャーリーズ・セロンが主演の映画『スタンドアップ』、観てきました。
まずとてもオドロキなのがタイトル。
原題は『North Country』……って『北の国から』じゃありませんか!

厳しい大自然とともに暮らす親子の物語……ではありません。
もっとはるかにへヴィーな「フェミニズム」映画なのです。

この作品も『モンスター』同様、アメリカの風景がすごい。『モンスター』では豪雨のフロリダと砂漠がアメリカという国の裏の側面を象徴していたが、今回はそれが凍てついたミネソタの道路と超巨大な炭鉱の機械。

内容を大雑把にいうと、
夫の暴力から逃げた女が炭鉱で働くことになり、そこで数々のえげつないセクハラを受けたうえ、裁判では彼女の過去にまで遡って曝け出されて、身も心もボロボロになりながらも、最後には家族の愛が確認され、孤立無援の彼女を支援する人々が立ち上がる、という内容。
途中のセクハラの場面は本当にえげつない。特に簡易トイレで用を足していたら、知能小学生並みの男どもに簡易トイレごと引っくり返されるという場面、実際にあったことなのでしょう。
最後は凍てついたミネソタの大地に春が来るという風景描写で終わり。

正直、感動。
でも、あとから冷静になってみると、ストーリー自体は予定調和だし、わざわざ感動させてしまう必要があるのか、という疑問も。
なんか既視感があるなあと思っていたら、これって昔の新劇の様式に近いのではないだろうか。いわゆる「社会主義リアリズム」というやつです。
小林多喜二の『蟹工船』なんかでも、最後は「まだまだたたかいはつづくのであった」というところで終わるのに対して、この作品は「裁判に勝って女性の立場は向上した」というところで終わってしまう。
それはそれで物語の結末として正しいのかもしれないけど、観終わった後にすっきりしちゃって、「もっと考えなくっちゃ」という気分にはあまりならない。

いちいちこんなふうに観てしまうわたしは損な奴です。
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by enikaita | 2006-02-03 04:46 | 映画


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