「日報」を名乗りながら、更新はときどき。
by enikaita
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アルトゥロ・ウィの興隆
観てきました。作品自体がかなり入り組んでいて、なかなか全容がいまだに掴み切れてない。それに輪をかけて、イヤホンガイドがその混乱に拍車をかけたのではないかと思う。
そのスジの方から伺ったのだが、ドイツ側からの「舞台をちゃんと観てほしい」という強い意向があって、字幕ではなくイヤホンガイドが採用されたらしい。しかし、この選択は成功したとは思えない。

何 しろ舞台上の登場人物とイヤホンガイドの声が合ってない。ヒトラーにそっくりの主人公、ウイの声はかなり早口でトーンが高い。それに対してイヤホンガイド の声はいやに落ち着いていて、低めでダンディなのだ。具体的には舞台上のウイが口からでまかせの台詞を早口で言っていたとしても、ガイドのウイは低めの声 で、確信を持った、落ち着いた口調、しかもちょっと余計な感情入りだ。台詞自体は正しかったとしても、イヤホンガイドの声は雰囲気的に間違っているのだ。
これではイヤホンガイドを使用した観客には、二のウイが存在し、混乱してしまう。しかし当然舞台上のウイが本物であるから、観客は以下の作業を持って舞台に臨む。

1. 舞台上のウイの雰囲気を観る。
2. イヤホンガイドを聴く。
3. イヤホンガイドと舞台上の出来事のギャップを確認する。
4. イヤホンガイドの余計な感情部分を切り捨て、頭の中で字幕化する。
5. 舞台上の登場人物に台詞を当てはめる。

当然舞台にのめり込むことはできない。たしかに字幕だとあのスピード感を殺してしまうことにもなりかねないが、最初から字幕であれば観客の負担は少なかった。これってもしかしてブレヒトの異化効果?……まさか、んなこたぁないよね。
イヤホンガイドさんが台詞を抑制しようとすればするほど、抑えた感情は輪郭を見せ始めてしまう。かといって、おもいきってアニメ声優を起用して彼らの表層 的な感情表現技術を駆使してアテレコしちゃえば、舞台とイヤホンガイドの乖離が明白であるから観やすくなる……ということにはならないだろうし、「棒読み」というのが結局、かなりの技量を要求してしまうのだ。

主役ヴトケの演技は前評判通りすごかった。彼の濃密さに対して、ほかの俳優はけっ こうテキトーにゆるくて、腹の立った人もいるかもしれないが、それはそれ、他の俳優も濃密だったならば観る方は疲れてしまう。ヴトケ中心のスターシステムだ。左腕を骨折していたが、演技には支障ないようだ。冒頭、ウイが犬の仕草をまねて四つん這いになる場面は映像で補われていたが、全く気にならなかった。 挙動不審で神経質そうな手の動きなどに、「チャップリンの独裁者」を想起した人もいたようだが、ミスター・ビーンや、志村けんも思い出される。劇中、シェ イクスピア俳優から教わる、「つま先から歩く」というのは、まさに彼ら、喜劇役者の動きそのものだ。
とにかく作品が入り組んでいる。ブレヒト作品だから、ややこしい話であることは覚悟していたが、初見で全容を把握できた人はいるのだろうか。ミュラー演出だし、そんなところは重要じゃないのかもしれないが、やはり気になる。原作を読んでから行けばよかったと悔やむ。早速図書館で借りてこようっと。
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by enikaita | 2005-06-30 05:38 | 舞台芸術
ドラえもん、アナーキーたれ
新しいドラえもんの声に、いまだ脳が順応してない。画面上で口をパクパクしているドラえもんに妙な声が「アテレコ」されている、ようにきこえる。ドラえもんは何らかの事情で声が出ないため、代わりに「声優さん」がセリフを言っている、と脳の中では処理されている。やはり大山のぶ代は偉大だった。(健在ですが)

というわけで私は、ドラえもんブームである。新ドラで取り扱っている話を記憶しているせいだ。早速「ドラえもん藤子・F・不二雄自選集」をブックオフで買い込んだ。「どくさいスイッチ」のカリカチュアやら「うそつきかがみ」のナンセンスやら、イカれた道具の数々。そういえば初期ドラえもんもイカれていた。家の中でボウリングをして鏡台を割るわ、やたら薬に頼るわ(22世紀は薬物中毒の世紀なのか?)……。セワシくんも第一回で「出来のいいロボットじゃない」とはっきり言っている。

藤子不二雄作品のパターンとして、「冴えない主人公の家に異形の者が棲みつく」という構図がある。この「異形の者」は超能力者であるが常識知らずで、異世界の常識を主人公の住む日常に持ち込んでくる。そこに生まれる摩擦が物語の根幹である。初期ドラえもんはこのセオリー通り「異形の者」として描かれていたのだが、徐々に変化し、のび太による理不尽な要求にドラえもんが世話役として振り回されるようになる。これがほかの藤子作品とドラえもんの大きな違いであり、また「国民的まんが」となった理由でもある。のび太は非常識であるはずの異形の者・ドラえもんによって常識を学び、また甘やかされた。ドラえもんは20世紀に長く居すぎたのだ。

ドラえもんは「国民的まんが」たるために、その毒を抜かれマンネリとなる道を選んだ。「異形の者」の超能力は本来その非常識と相殺関係にあるはずだが、ドラえもんは単に頼れる超能力者だ。マンネリは正しく導く者を必要とし、それはある種の宗教性を帯びてくる。アナーキーなドラえもんでは神は務まらない。

全く関係ないが、冴えない主人公と異形の者、いじめっ子とその子分、そして紅一点という構成、この人物相関関係を拝借した演劇を「ドラえもん演劇」というらしい。幸いまだ観たことはない、と思う。(ちなみにリーダー・サブリーダー・道化・一匹狼・紅一点の人物相関関係を使用した演劇を「ゴレンジャー演劇」という、らしい)

「国民的」=マンネリとなるために毒を抜かれた者たち。初期「水戸黄門」東野英治郎の高笑いは、「小悪党を懲らしめる大悪党たる為政者」そのものだったし、4コマまんがの「サザエさん」はデモにも参加する「進歩的」女性だった。それぞれ「国民的」という称号を得るために階級闘争臭を捨てたのだ。初心に返ったドラえもんがアナーキーであれば、と思うのだが。
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by enikaita | 2005-06-27 02:02 | TV


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