「日報」を名乗りながら、更新はときどき。
by enikaita
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
『モローラ・灰』から『ホテル・ルワンダ』へ
横浜で南アフリカの演劇『モローラ・灰』を観た。

倍音唱法の女性ポリフォニーがコロスだということで、演劇的興味以上にマホテラ・クイーンズみたいな南アフリカ的ポリフォニーが聴けることを楽しみにでかけた。ちなみにマホテラ・クイーンズというのは90年頃の世界的なワールド・ミュージック・ブームのときに人気だった南アフリカのマハラティーニ&マホテラ・クイーンズのメンバーで、女性による驚異的に息のあった伸びやかなポリフォニーが話題となり、日本でもパルコのCMに登場した。アフリカのミュージシャンはリズムの魅力だけでなく、マリのサリフ・ケイタのような驚異的な声も特徴的。

倍音唱法といえば、まず思い出されるのがモンゴルのホーミーだが、アフリカのそれはどのようなものだろうか。この作品では場面転換などに用いられていた。倍音唱法とそうでない部分があったが、倍音唱法自体は私が想定していた「伸びやかさ」というような質のものではなかった。ものすごく低音なのだ。しかも演奏される楽器も低音、音が地を這い、劇場を包む。しかも、この超ファンキーなコロスのオバちゃんたちは、どんどん芝居に介入してくるのだ。まさに八面六臂の大活躍、ある時は南アフリカ黒人のその他大勢、ある時は世界の世論、そしてもちろん効果音も。とにかく彼女らの存在は、この作品からまったく欠かすことはできない。

内容はギリシャ悲劇のアガメムノン一族にまつわる連作を再構成したもの。父を殺した母クリュタイムネストラを、娘エレクトラとその弟オレステスが復讐する。しかし母の夫殺しも復讐に由来するため、連作を一つにまとめることで、「復讐の連鎖」というモチーフがより鮮明になった。

そしてこの舞台で重要なのは、娘エレクトラと弟オレステスを黒人が、母のクリュタイムネストラを白人が演じているということ。つまりこの「復讐の連鎖」のモチーフはそのままアパルトヘイトとその後の現代の南アフリカにおける問題と直結するという仕掛けが施されているのだ。

舞台はまずコロスの登場から。客席などからひとりずつ、ポリフォニーが追加され、空間が「声」に包まれる。全ての登場人物が登場し、声が止むと蛍光灯が点灯、幻想的でさえあった空気が一気に現実にひき戻される。始まるのは「真実和解委員会」の裁判。これは恩赦を受けるために自ら犯した罪をクリュタイムネストラが告白する場面。ただ、現実に引き戻されたとはいえ、その発声は朗誦に近いためにいわゆるリアリズムではない圧力がある。

この裁判での証言を軸に、舞台上は過去に遡って母の夫殺し、娘への虐待、エレクトラによって他所で育てられたオレステスの帰還、そして復讐の場面へと進む。ただ、時間軸的にはいちばん新しいのはこの冒頭の裁判の場面であるから、ここに母のクリュタイムネストラが登場しているということは、その時点ですでに原作とは違い「復讐は達成されなかった」ということが明示される。

つまりこの作品は、どう復讐の連鎖を断ち切ったのか、ということへの考察である。

白人母が黒人娘に対して、ビニール袋を頭からかぶせて窒息させるとか、途中に挿入された虐待の場面はかなりリアリティがある。それもそのはず、実際に南アフリカの治安警察がレジスタンスに対して行った行為で、これは現実の「真実和解委員会」でも法廷で再現された。

なかなかえげつない。舞台上は土と血でしだいに乱れ、秩序を失っていく。「絶対に復讐をしなければならない」という脅迫の声が聞こえてくるかのようだ。しかし、ところどころ見事に象徴的・演劇的に処理されてもいる。オレステスが母の愛人・アイギストスを殺す場面、舞台上にはアイギストスは一切登場しない。オレステスは恍惚感をも匂わせながらアイギストスの長靴と格闘し、その長靴の中から血まみれの心臓を取り出したのだ。

アイギストスを殺したオレステスは復讐の本丸、クリュタイムネストラへ立ち向かう。しかしそこにコロスの声が聞こえる。あるいは育ての母の声だろうか。自分の声かもしれない。「復讐は復讐を呼ぶ」
かくしてオレステスは復讐を断念する。復讐が達成されず泣き崩れるエレクトラを抱きしめるオレステス。
「灰」が舞台に降り注ぎ、カタルシスをよそおうが、舞台上の俳優の表情は一様に暗い。けっして〈和解〉したわけではないし〈和解〉することは不可能だ。〈復讐〉という選択肢を断念しただけ。最後には復讐する側とされる側、両者の溝はまったく埋まらぬまま、三人が舞台上で立ちつくす場面で終わる。
舞台上で〈和解〉を示すような台詞が喋られても、俳優の意識とは次第に乖離していく。そのことがそのままアパルトヘイト後の南アフリカの理念と市民の意識との乖離と接続している。理性のみがそこをつなぎ止めている。

声、演技、演出などなど、すべてにおいて圧倒された希有な舞台だった。


映画『ホテル・ルワンダ』の余韻が鮮明なまま、この舞台を観たので、どうしても『ホテル・ルワンダ』と比較・関連づけて考えてしまう。『ホテル・ルワンダ』は観たすぐあとはカタルシス的感動に包まれたのだが、現在はこの映画についてずっと冷静に捉えることができるようになってきた。
私は『ホテル・ルワンダ』における「最終的にエンターテインメント」な姿勢にどうも引っかかる印象を持ちはじめていたのである。

この舞台と『ホテル・ルワンダ』の違いは〈復讐する側〉か〈復讐される側〉かということだ。

『モローラ・灰』は、復讐心を醸成していくエレクトラの心理に焦点を当てていて、猛烈な虐待を目の当たりにした観客は「復讐の断念」という選択肢に対して次第に消極的にならざるを得ない。このため最後の〈復讐の断念〉はより鮮明に異化される。つまり観客の復讐心をわざとあおっておいて、最後に当初観客が想定していたであろう〈和解〉をいきなりもちこみ、観客の意識を混乱させ、一気に理性に引き戻す。そこで結果として復讐の論理を追体験するような仕掛けになっている。

一方で『ホテル・ルワンダ』は根拠のない〈復讐〉に対してなす術なく逃げ惑うツチ族住民を描いている。ここでは『モローラ』にあるような復讐者の論理はない。復讐者は単なる暴徒であり、不特定多数である。フツ族のプロパガンダ放送がツチ族を「コックローチ」と表現することの裏返しが、実は映画上でフツ族民兵に対しても行われているのだ。観客の中にはフツ族民兵こそ「コックローチ」であると認識した人さえいるはずだ。そこに残るのは結局〈復讐の連鎖〉の予感に他ならない。

『ホテル・ルワンダ』は、生存者が見たものに忠実に「虐殺しようとしている場面」をあえて挿入しないことで、よりリアルさを得たが、ホテルに避難してきた民間人にのみ焦点をあてたがために、重層的な状況を把握しづらくなっている。フツ族民兵を虐殺に駆り立てたものは何だったのか、そういう場面も必要だったのではないか。
正直、この映画に対してあまりに「感動の涙が止まりません」みたいな、どうでもいい評価が多いので、ちょっとひねくれてみました。
[PR]
by enikaita | 2006-02-19 01:06 | 舞台芸術
<< 『ダーウィンへの最後のタクシー』 「ナタ、あります」〜『ホテル・... >>


カテゴリ
以前の記事
タグ
お気に入りブログ
最新のコメント
検索
ブログパーツ
人気ジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧