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ちんこと公共劇場
2005年6月の劇場は、妙な類似点があった。言ってしまえばバカバカしいが、なぜか「ちんこ」露出が多かった。

まず世田谷パブリックシアターの『禁色』(出演/伊藤キム、白井剛)は冒頭からちんこ。真っ白な舞台に立つ全裸のおとこ二人。そこに流れる激しめのロック、二人はギターソロにあわせ、ちんこを「演奏」する。ビブラートにあわせてチンコの皮をぐいぐいひっぱってみたり。BGMの歌にあわせた口パクは、伊藤キムがよくやる「芸」の一つなのだが、今回はそれが「ちんこギター」なのだ。

男性ギタリストがギターを女性に見立てる、なんて話をよく聞く。腰のクビレたギターを小さく抱え込んで指ではじき、音を奏でる。ギターと「添い寝した」なんてのもある。男の妄想はギターに仮託される。伊藤キムの場合、ギター=女性(愛すべきもの)という構図が、愛すべきものをおのれの「ちんこ」とすることで、『禁色』における自己愛の世界が強烈に暗示された。

次にシャウビューネの『火の顔』(オスターマイアー演出)。いかにも上っ面だけ平和そうな家族。姉と弟はちょうど思春期に差しかかっており、非常にナイーブになっている。姉が弟に性的ないたずらをし、それが弟の心の傷にもなっているらしい。弟は自身の鬱屈した性的ストレスを解放するため「射精」の代替行為として、放火に興味を持つようになる。学校に放火し、自らの顔も火傷を負う。(火傷を負った顔はむき出しになったペニスを表すだろう)最後には姉と結託して親を寝込みざまに襲い殺害、自宅に放火する。早熟な弟は様々な哲学的言説を繰り返すが、それらも全て「射精」のための理屈づけと考えた時に納得がいった。幕切れ、家に火をつける場面は妙な爽快感があった。主人公の「射精」に観客が同期したかたちだ。もちろんそれを不快に感じた人も少なからずいただろう。

この作品の中で、姉が猛烈にイケてないバイクおたくの彼氏とセックスをする。その彼氏は、次第に良識世界の人間として、この歪んだ関係の姉弟に疎まれるようになり、姉弟は彼の服を燃やしてしまう。着る服がなくなったこの男が全裸で登場する。

ベルリナー・アンサンブル『アルトゥロ・ウィの興隆』(ハイナー・ミュラー演出)でもナチスの将校の格好をした男が全裸になり勇ましそうなポーズを決める。正直、あまり意味は分からなかったが。

演劇において「ちんこ」露出はよくあることだが、当然ながらテレビや映画などでは厳重に規制されている。バカバカしい詮索かもしれないが、法的にはどうなっているのだろうか。法律では刑法175条(わいせつ物頒布等)が該当する。「わいせつな文書、図画その他の物を頒布し、販売し、又は公然と陳列した者は〜(中略)〜に処する」とある。ここでいう「公然」とは「不特定または多数人が認識しうる状態」だそうだ。ちなみに「わいせつ」とは、「それによって性欲を興奮または刺激させ、かつ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」をいう。

まず劇場内は「公然」なのだろうか。これら3本の作品が上演されたのは世田谷パブリックシアターと新国立劇場、いずれも日本を代表する公立劇場である。劇場はある目的を持って人が集まり、その入場において料金を支払う以上、観客=不特定の人とはいえない、と解釈されるだろう。しかし、どちらの劇場も500人以上の客席数がある。「多数人」が具体的な数ではないにせよ、500人は少数人なのか。仮に多数人ではなかったとして、日生劇場や帝国劇場、あるいは日本武道館や東京ドームだったら多数人になるのだろうか。

次に「ちんこ」はわいせつか、という根本的な問題。法律では具体的に性器露出の禁止が明文化されているわけではない。しかし性的羞恥心を害し、性的道義観念に反しているのは疑いないだろう。しかしそれが笑いに直結するとき、露出は容認される。たしかにこのちんこ露出に対して会場の誰もが「わいせつ」であるとは思わなかっただろう。以前テレビ生放送中に笑福亭鶴瓶が勢いにまかせてちんこを露出し話題となったが、笑いを目的とするなら、テレビ・映画でもOKなんじゃないの? という気にさえなってきた。実際鶴瓶は逮捕されていない。ただこれも男性器だから笑いとして容認されるのであって、女性器はそうはいかない。男性器だって勃起していたらどうだろう。「性欲を興奮又は刺激させ」てしまう人もいるかもしれない。観客の受け入れ方も激変するだろう。男性器はわいせつでないが、女性器はわいせつだ、ということでは非常に問題があるが、現実として「わいせつ」かそうでないかという判断は、受け入れる観客の側に委ねられる以上、女性器解放もまだ先だし、勃起したペニスに到っては、劇場という閉鎖された空間においてさえ、そう簡単には容認されることはないだろう。演じる側にも相当の覚悟がいる。

「芸術的、思想的価値のある文書でも、わいせつ性があると評価しうる」(『悪徳の栄え』事件)。芸術性とわいせつ性は共存するのである。ギャグだろうがアートだろうが「わいせつ」は「わいせつ」ということだ。法律は扱う人の解釈次第だ。
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by enikaita | 2005-07-10 23:49 | 舞台芸術
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