「日報」を名乗りながら、更新はときどき。
by enikaita
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
密室のなかの神/ソクーロフ『太陽』
8月15日だからというわけではないんだけど、封切館のシネパトスがある銀座に連日行っているついでに、昼休みに整理券を取得し、ソクーロフ『太陽』の18時45分の回を観た。
開場待ちのあいだ、前の回が終わって劇場から吐き出される客のなかに庵野秀明氏や夏目房之介氏を発見。
新聞でも多く取り上げられたこともあって、小さい映画館なのに『ボウリング・フォー・コロンバイン』のときの恵比寿ガーデンシネマくらいに混雑して毎回立ち見が出ているもよう。そのうち順次上映館が拡大されると思う。

太平洋戦争末期、天皇は地下の密室から密室への移動でほとんどを過ごし、極度に外部から隔絶されている。そこで着替え、食事をし、ときに研究室で平家ガニを観察し、墨をすってひとり歌を詠んでいる。空襲で焦土となった凄惨な光景は、幻想的な映像で綴られ、密室の中の天皇が想像する戦争のイメージとして描かれている。この過去にない太平洋戦争の描写は新鮮であると同時に、妙なリアリティも持ちえている。

一般に太平洋戦争末期を描いた映画やテレビドラマには「定型」がある。太陽が照りつけ、汗だくだくになりながら立ちつくし、「耐エ難キヲ耐エ〜」の玉音ラジオ放送を聴く。この放送をきっかけに、戦中と戦後を対比させるのは戦争ドラマの常套手段だ。
しかし天皇を主人公にした『太陽』で玉音放送を聴く場面がないのは当然だが、もし日本人監督ならば挿入すると思われる録音の場面もない。戦争はあいまいに終わり、いつのまにか駐留軍は皇居の中庭まで入りこんで天皇の写真を撮っている。史実は知るべくもないが、この曖昧な流れが密室の中の天皇が味わったリアリティだとしたら説得力がある。

天皇の「人間宣言」を集約点としたこの映画は、劇中のマッカーサーの台詞にあるような「何百万もの人を殺した男」という天皇認識と、神にされながら息子の身を案じる小さな個人である天皇の姿とのギャップをソクーロフは明快に提示した。
イッセー尾形は、ハイパーリアルな演技で個人が神としてあがめられてしまうことの不可解さや滑稽さをよくあらわしていた。ほかの適任な配役は思いあたらない。

天皇というシステムはしだいになくなっていくべきとわたしは考えているのだけれど、この映画のなかで写真撮影に応じる天皇が、米軍カメラマンに「チャーリー!(チャップリン)そっくり」と囃したてられ、馬鹿にされる場面では、すこし不快な気分になった。天皇なんてまったく自分に無関係なものだと思っていたし、気にしたこともなかったけど、不快な気分になったわたしの無意識には、天皇とか日本とかいうものがどこかで潜んでいたということに、天皇という不可解で滑稽な存在とわたしの関係を考えさせられた。
[PR]
by enikaita | 2006-08-15 22:48 | 映画
<< おらあコノノだ! 消えたノイズ >>


カテゴリ
以前の記事
タグ
お気に入りブログ
検索
ブログパーツ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧