「日報」を名乗りながら、更新はときどき。
by enikaita
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ヤン・ファーブル
ヤン・ファーブルという人物は『昆虫記』で有名なファーブルの曾孫にあたる。遺伝のせいなのかよく分からないが、彼も住居で虫を大量に飼育していて、ときどき解剖したりして和むのだという。やはり変人である。
ヤン・ファーブルは美術家であり、振付家であり、戯曲も書いている。彼の舞台を写真で見たことがあるが、それはパリ市立劇場でのダンス公演で、女性ダンサーたちが舞台上で小便をするというものだった。
今回の『主役の男が女である時』はソロ・ダンスだが、ヤン・ファーブル自身が踊るわけではない。事前情報によるとダンサーはリスベット・グルウェーズという人で、この作品はこの人のために制作されたらしい。しかし今回は都合により韓国人女性ダンサーのスン・イム・ハーが出演した。

開演前、舞台上には中に液体が入っていて蓋のされたボトルが等間隔で並んでいるのがみえる。一つ一つのその上に天井から針金がぶら下がっていて、その針金にボトルをぶら下げることができるようになっている。

照明が暗くなり開演。ダンサーはまずボトルを針金に取りつけはじめた。ボトルは必ず蓋側が下を向くようになっている。パッキンが緩いのか、尿漏れのお爺ちゃんの如くポタポタと少量ずつこぼれる。全部の装着が終わるとダンサーは後ろ姿のままタバコを喫う。

上着を脱ぐと犯罪者の顔隠し用の「目線」の如くに、ダンサーの乳首部分が黒ガムテープによる「チチ線」で隠されている。女であるはずのダンサーが、この一手間で男になるかというと、そんなことはない。ひとまず性別の判定を留保したいというか、性別を明らかにしたくないということへの意識のほうが、この「チチ線」には強いと思う。ダンサーは自分の股間に忍ばせておいた銀の玉を取り出し弄ぶ。この玉は睾丸だ。
その「睾丸」を使った動き。飲み込んだ玉が体の中で暴れる。右肩あたりから腰に玉が移動し、ダンサーは突っ伏す。ノイズ的な音楽に合わせながら何度もこれを反復する。どっかの劇団のワークショップで観たことあるぞ、これ。
1.ピンポン球くらいの大きさの球をイメージしそれを口から呑みこむ。 2.体の中に入ったピンポン球が暴れだすというイメージで、体を動かす。
まあいいや。
この反復は、観る側にとってじわじわと不快なものになっていく。「睾丸」は男を支配するものとして、呑みこまれると体内で暴れ、躰を傷つける。それが何度もくりかえされる。

ダンサーは吊されたボトルの蓋を一つ一つ開けてまわる。中の液体がこぼれだす。ダンサーは「睾丸」である銀の玉を『サヨナラー』と舞台に放り捨て別れを告げ、舞台から去る。
ダンサーは「チチ線」もはずし、完全に全裸で登場し、激しく動きまわる。ボトルからこぼれる液体は水ではなく油だった。(オリーブオイルってチラシに書いてあったのに気づかなかった)黒いリノリウムの上を転げ回ったダンサーは、鉄板の油をのばすかのように、舞台全体に油をまわす。ダンサーの躰も油で光ってキラキラ・キトキトだ。いわゆる「ローション・プレイ」みたいなことになっている。

言い忘れたが、私は双眼鏡で観ていた。「大ホール」と名のつく劇場での公演を観にいく時はたいがい持参する。オペラグラスとは比較にならないほどよく見えて重宝している。今回はソロ・ダンスだし、双眼鏡は有効だろうという予想通りだったのだが、それにしても油まみれでテカテカの全裸女性を二階の隅から双眼鏡で覗きこむのは、ストリップ小屋のようでドキドキする。踊りそれ自体も隠すべきところを隠そうとか、そういう意識は全くなく、むしろワイセツさにチャレンジしている、と思う。双眼鏡で覗きこんでいるところを誰かに見られたらなんと言い訳しようかとすこしだけ考える。
ヤン・ファーブルの作品のキャッチフレーズは「芸術か、ワイセツか」みたいなかんじで、当初からワイセツを意識している。「睾丸」の支配から解き放たれたダンサーの動きは運動量的にはかなりキツそうだ。体力をつけるために筋トレするソープ嬢のことを思いだす(@映画『嫌われ松子の一生』)。
最後は隠し持っていたオリーブの粒をヴァギナからとりだし、マティーニのカクテルグラスに入れて、韓国式英語で「パルフェクッ!(日本式で「パーフェクト」)」と言って終了。

もっと難解な作品なのかなあと勝手に思っていただけに、ちょっと意外な印象。結局タイトルそのまま。「(睾丸を持つ)男は不自由で(睾丸がない)女は自由」っていう作品だと言ってしまえばすごくわかりやすい。でも睾丸がなくなったからといって、実際は自由になるわけではないし、男より女のほうがよっぽど身体的な制限があるような気がするし。すくなくとも女より男のほうがやっぱり自由じゃないの?
てなことを考えるとヤン・ファーブルの「女のからだ礼賛」みたいなこの舞台に対して、ちょっと引き気味な私がいることに気づく。
そもそもダンサーの変更がなければこういった感想は抱かないのかもしれない。

この作品、ディプラッツのような小空間のほうがしっくりくるかな、とも思っていたが、全裸ダンサー登場で考え方が一転した。あからさまに全裸で、しかもワイセツということをそれなりに意識しているとなると、小空間だとストリップとのちがいがいよいよ分からなくなり、シャレにならないのではないか。「芸術」だと認定されるためには、1000人のオーディエンスが必要なのだと思う。
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by enikaita | 2006-07-02 19:33 | 舞台芸術
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