「日報」を名乗りながら、更新はときどき。
by enikaita
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ふたたび『モローラ』から、いきなり「新劇」へ。
ここ最近でサイコーに面白かったと思っている『モローラ』であるが、観劇から数日経って、いろいろな人に話を聞くと、当然といえば当然だが、受け取り方が全然ちがうわけだ。

「たしかに面白かったけれども、想定の範囲内」ということで、どうやら全てが演出家の手の内にあると見えてしまうことが気にいらないらしい。
この作品は、「民衆力」のようなものによって、上演行為が上演台本を否定しまうという構造になっていて、観客はそこを右往左往するわけだ。ただ、その観客も含めた舞台全体の情動のようなものが、すでに演出家によって「折り込み済み」の状況である、ということが引っかかるらしい。そこでは演劇が持つ「その場」「その時」が生みだす不確定要素の可能性が失われているのではないか、ということだ。だからたとえば、アマチュア性を基軸にしたような舞台作品が時折見せるような「はじける」面白さを見いだすことは難しいし、このあとの展開が見えないということでもある。

ただ、アマチュア性がそういった面白さをはじけさせるということは、やはり極めて稀なことでもある。しかしながらこのアマチュア性こそが、演劇自体の発展をはかってきたものだということもいえるからこそ、こういった意見が『モローラ』に対して寄せられるのだとも思う。

さて、私はひっそりと下北沢で行われた「新劇とは何か」という主旨のシンポジウムを見に行ったのだが、そのときのパネリストの締めの発言は少々意外なものであった。
司会者の「新劇って結局何なんですか?」という素朴な問いに対して、「新劇とは〈アマチュアリズム〉である』と言ったのだ。

日本の演劇史をとても大ざっぱに概括すると、古くは「歌舞伎」があって、もっと現代の題材を扱いたいということで「新派劇」が生まれ、もっと自然な演技がしたいということで「新劇」が生まれ、もっと好き勝手にやりたいということで「アングラ」が生まれ、もっとオシャレにしたいということで「80年代小劇場」が生まれ、もっと日常に即してということでいわゆる「静かな演劇」が生まれ、もっとバカでいいじゃん、ということで「演劇ぶっく」的な演劇が生まれたという、まさに弁証法的発展を遂げている。ついでに言うと21世紀の日本演劇は「もっと事実に近づきたい」というところから様々な方法が模索されているのではないか。(もちろんこれはめちゃくちゃ大ざっぱで、旧形式を全否定したわけではなく、それぞれ旧形式をどこか引き摺っているということだけは間違いない)

さて、この「もっと○○したい」というのが〈アマチュアリズム〉なのだろう。その人が以前の形式を否定するとき、過去の形式における「藝」の存在に目を向ける。つけいる隙のない「藝」の存在があったからこそ、後続の演劇人たちはそれをまず否定することで自身の立場を築いてきた。「少々意外」だと思ったのも、私が新劇を「藝」だと考えていたからだ。杉村春子にしろ宇野重吉にしろ「書かれた台詞」をあれだけスムーズに言えてしまうというのは藝以外のなにものでもない。しかしその創成期において新派劇における「藝」の否定からスタートしているわけだから、新劇も〈アマチュアリズム〉を発端にしているといえる。そこから新劇は演技論を体系化して、40年近く前にすでに「藝」と見なされていたわけだ。「うまい・へた」ということが判断される時点でそれは既に「藝」であろう。21世紀の今、ここで「新劇はアマチュアリズム」と言われてしまうことの違和感は全く拭えない。「藝」だからこそ面白いとも思うのだが。
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by enikaita | 2006-03-01 16:47 | 舞台芸術
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